鈴の辞表は営業部長預かりのまま、保留された形になり、彼女への慰留が続いていた。


鈴は


「申し訳ありません。ここまでお引き留めいただけるなんて、本当に光栄ですが、正直、私には営業はちょっと荷が重いんです。それに、他にやりたいことが出来ましたので、どうかお許し下さい。」


とあくまで、退職したい意思を強調したが、それなら本来の営業事務の方に専念させるからと、上司も引かない。


そんなこんなで、数日を費やされた。その間、鈴が業務を蔑ろにするようなことはなく、表面上は通常通り、時は流れていた。


だが、その一方で、鈴と達也は別居してるのでは、という話が、徐々に社内で囁かれ始めていた。


「あの2人、一緒に出勤して来なくなって、もう1週間以上経つよ。」


「鈴のお母さんが、体調崩して、面倒見に実家に帰ってるって聞いたけど。」


「でも風邪でしょ?そんな重病でもないのに、それって少し、おかしくない?」


やはり「人の口に戸は建てられない」ようだった。


心配して事情を尋ねる未来やひなたに、鈴は


「事情があって、今は別居してるのは事実だけど、ややこしい話じゃないし、それと私の退職は、直接の関係はないから。」


と答えた。しかし、それを額面通りに受け取る向きは少なく、「一身上の都合」とは、そういうことだったのかと、社内には驚きが広がっていた。


一方の達也は、事情を聞かれても


「業務には関係ないことだから。」


と多くを語ろうとはしなかった。その態度が、いろいろな憶測を呼ぶことは、避けられなかったが、達也はそれ以上のことは、何も言おうとはしなかった。


そうこうしているうちに、週があっという間に過ぎて行く。


明日からの週末休みを前に、同僚達が一席設けて、自分に話をさせようと手くずねひいているのが、ありありと感じられた達也は


「今日は鈴と久々のデートなんだ。じゃあな。」


と先手を打って、周囲を煙に巻くようなことを言うと早々にオフィスを後にした。


(お前達の酒の肴にされて、たまるかよ。)


そう思う反面、鈴のいないマンションで、一人考えたくもないことをいろいろと思うことになる週末がやって来るのが、たまらなく憂鬱だった。


「神野。」


そんなことを考えながら、足早に駅に向かう達也を呼び止める声。立ち止まって、振り返ると、飯田の姿があった。


「飯田。」


「ちょっと付き合えよ。」


そうぶっきらぼうに言った飯田は、達也の返事も聞かずに、歩き出す。


「なんだよ。」


達也はそう言ったが、飯田は振り向きもせずに歩いて行く。


(仕方ねぇな。)


なんとなく断りそびれ、結局達也は後に続いて歩き出した。