ーーー夜
「あのー落としましたよ」
私の声をかき消そうと言うのか
耳が痛くなるくらい騒がしく鳴き散らすセミの声
「…え」
だけど彼にはちゃんと聞こえたみたいで
その人は鬱陶しく伸びた、目にかかる髪をどけてその黒い瞳で私を見た
「これ」
私の手に握られた黒い定期入れ
「あー」
受け取る瞬間少しだけ触れた指先
「ありがとう」
素敵な笑顔とは言い難いけど、ほんの少しだけ口角が上がる自然な微笑み
「どういたしまして」
それで終われば
ただただ親切な人というイメージがつくだけだったかもしれない
でも私が…それだけじゃ嫌だったんだ
「あの」
「あの」
二人して同じ言葉を口にする
その偶然がなぜかおかしくて
セミの声に紛れて私達の笑い声が響いた
あの夏の日
ーー


