1   青春の始まり


1、星高野球部新一年生

青春とは?
先輩たちが野球の練習をしている最中のグランドを眺めるながら亜美は思った。
青春はきっとここから始まる。

星美高校、通称星高のグランドには真新しい練習着に身を包んだ少年たちが並んだ。
野球部に入部した新一年生。
そして今日が練習初日。
今年の新入部員は亜美を含めて40名。
と言っても、女子である亜美は甲子園を目指す球児に交じって野球をする自信なんてなく、マネージャー希望だ。
だから一人だけ白い練習着ではなく、学校指定の青いジャージを着ている訳で。
不安や緊張が交差する重苦しい空気の中、亜美は何度も周りを見回していた。
ある人物を探して。
女子が男子と一緒に野球ができるはずなんてない。
しかし、例外はある。
亜美がこの学校に進学したのも、野球部のマネージャーを希望したのも、彼女の影響なのだ。
彼女なら男子に交じって野球ができるし、それが通用する。
いや、男子であっても彼女には勝てない。
例え先輩であっても彼女には勝てないだろう。
彼女に勝てる人はいない…。
ところが、グラウンドに彼女の姿がない。
はぁ、と亜美は溜め息を吐いた。
初日から遅刻するとは。
カキーンと音をたててボールが遠い空に飛んだ。
おぉ、と声を出す新一年生の驚きが広がる。
その興奮は一年生にとって先輩は憧れの対象であることを示している。
その時、こっちに向かって歩いてくる人がいた。
監督だ。
「みんな、いい顔してる」
監督は新一年生の顔を見回した後、言った。
優しそうな笑顔と、優しそうな声。しかし、自然に緊張感が亜美にも伝わってきた。
白髪頭でぷっくらした顔のおじいちゃん。ここが野球部のグラウンドじゃなかったら、あるいは監督だと知らなければ、どこにでもいそうな普通のおじいちゃん。
「私が君たちに求めることは、楽しくやれ、ということだ。勝つか負けるかはその次でいい」
「「はいっ!!」」
監督の言葉に勢いよく一斉に返事をする。
楽しくやれ?
勝つことが第一じゃなくて?
みんなは監督のことを理解した上で返事をしたのだろうか。
遊びじゃないんだ。
楽しくやるより、勝つことの方が大切なはず。
これは亜美の意見というより、…彼女なら今の監督の言葉に怒るだろう。
亜美の不満を察知したかのように監督は意味あり気な笑みを浮かべて続けた。
「しかし、勝てなければ楽しくないだろう。私は一年生であっても実力のある奴や、努力をしていて伸びそうな奴は試合に出していくし、レギュラーにもする。私にとっては一年生も二年生も三年生もない。遠慮なく日々の練習に励んでくれ」
「「はいっ!!」」
みんなの返事が一段と大きくなる。
そういうことか、と亜美は監督の言葉に安堵する。
徳田監督。
全国の高校を渡り歩き、何度も甲子園に導いてきたこの実力者は、今年星高に来たばかりだ。
野球が強かった星高も今では昔話。最近では弱小のレッテルも似合ってきた。
もちろん、甲子園なんて夢のまた夢。
しかし、徳田監督が星高に来たことで今年は例年よりも野球部志望が多い。地方の中学からわざわざ星高に進学した人もいるのだ。
亜美もまたその内の一人。とは言っても亜美の場合は徳田監督ではなく、彼女の影響で、…その彼女はなぜ星高に進学を決めたのか、亜美にはわからない。
やっぱり、徳田監督がいるからだろうか。
でも、なんか違う気がする。
一年生が列を作って走っていく姿を見送って亜美は徳田監督の座るベンチに近づいた。
野球部のマネージャーといっても、どんな仕事をすればいいのかわからない。
教えてくれる先輩マネージャーもいない。
ならば監督の指示を待っのみ。
「君はマネージャーの…」
徳田監督は亜美を見て言った。
「小松亜美です。よろしくお願いします」
亜美は丁寧に頭を下げた。
「こちらこそ、よろしく。マネージャーの仕事は大変かも知れないが……ん?」
徳田監督は亜美の背後に視線を送って眉間に皺を寄せた。
何…何?
亜美は慌てて背後を見た。
そこには、だるそうに歩いてくる女子。
野球部の白い練習着、帽子を斜めに被っているのは、おしゃれではなく、ただ単に雑なのだ。
お蔭で綺麗なショートヘアが乱れている。
髪の色は、茶色で。
小麦色に妬けた肌。
睨み付けるような目。
いつも通りの彼女。
川田月乃。
「さっそく遅刻か?」
徳田監督の言葉に月乃は足を止めた。
「誰?」
月乃は徳田監督ではなく、亜美の方を見て言った。
か・ん・と・く
亜美は声は出さずに口だけを動かす。
「ああ。監督か」
呑気な月乃の声に、徳田監督は少し笑った。
「川田月乃だな」
「そうだけど」
高校生になっても相変わらず敬語も使えない。月乃にはマナーも常識もない。
「練習はもう始まってるぞ。一年生はランニング中だ。早く一緒に走ってこい」
「はいはい」
月乃は面倒臭そうに答えると、ゆっくりと走り出した。
気が短く、暴力的なところもある。少し暗くて、マイペース。
しかし、ものすごく真っ直ぐで仲間思い。
そして、最強の野球選手。
これが亜美の親友である川田月乃だ。
「このチームは面白くなりそうだな」
徳田監督がつぶやくように言った。
必ず面白くなりますよー亜美は心のなかで答えた。
その時、亜美の目は一年生と一緒に走っている髪の長い女子を捉えた。
誰?あの子もマネージャー?
学校指定のジャージではなく、私物と思われる黒いジャージ姿で肌の白さと長い髪が印象的だった。
と言うより…かなり美人。
「全員集合!」
監督が大きな声を出した。
野球部員がベンチに向かって走ってくる。
徳田監督の目が鋭くなった。
「これより二・三年生対一年生の試合を行う。全員のレベルを知っておきたいからだ。俺は一年側に付く。二・三年は今までやってきた通りに戦え」
「はいっ!!」
徳田監督の顔も、明らかに監督となっていた。
これにより、ざわつき始めた一年生。いくら弱小とはいえ、相手は先輩。勝てるはずなんてないと思っているのだろうか。
亜美は月乃を見た。
余裕な顔をする月乃は亜美にウィンクした。
そう、亜美にはわかってる。
この試合、恐れることなんてひとつもない。確かに、高校での一年や二年の差は大きいのかも知れない。だから、不利なゲームだ。
でもね、こっちには月乃がいるんだよ。


2 川田月乃

準備運動を終えた月乃がマウンドの上に立った。
「ピッチャーが女?」
目を丸くしたのは野球部員のほとんどだ。
そして、月乃が軽めに投球練習をすると驚きの声に変わった。
徳田監督は目を細めて月乃を見ていた。
亜美は生意気かな、と思いながらも徳田監督の横に腰を下ろした。
「いいピッチャーだな」
徳田監督はちらりと亜美を見て言った。
「はい。月乃のストレートはなかなか打てません」
強気な亜美に対して徳田監督はふんと鼻で笑った。
二・三年生チームの一番打者がバッターボックスに立った。
「一番センター、木松。まぁ打てんだろうな」
徳田監督が言った。
月乃はゆっくりと振りかぶって、投げた。
その一球目は鋭い音を響かせて真ん中に決まった。
二球目、三球目とあっけなく空振り。
三振。
「二番セカンド、早川。バットには当てれるかな」
「監督はもう選手たちの特徴を覚えたんですか?」
「いや、まださっぱり」
二番打者の早川は二球目でバットに当ててファールにしたが、三球目は空振りで三振。
「一番、二番と三年生がこれではダメだな。次はショートの森。二年生だ」
「打てないと思います」
「いや」
マウンドの上にいる月乃がゆっくりと投球動作に入る。
一球目、森は見送ってストライク。
「全部真ん中のストレートだ。これでは打たれる」
徳田監督の迷いがない口調に亜美は内心でむっとした。
月乃を知らないくせに。
しかし、二球目でカキーンと音をたててボールはセンターへ飛んだ。大きな当たりだったがセンターが追い付いてアウト。
スリーアウトチェンジ。
「よく打ち返せましたね」
亜美の声に反応して、徳田監督はちらりと顔を向けた。
「ここの野球部は、決して弱くはないんだよ。むしろ個々のレベルは高い」
「そうなんですか」
亜美はそれほど興味もなく答えた。
一回裏、一年生の攻撃はピッチャーゴロ。
サードゴロ。
空振り三振。
あっけなく三者凡退。二、三年生チームの攻撃に入る。
大きな体の四番打者がバッターボックスに立った。
「四番、ファーストの南田風太郎からだ」
徳田監督がまた語りだした。
「星高の南田兄弟といったら有名らしいが、聞いたことないか?」
「いえ、わかりません」
マネージャーとして勉強不足だっただろうか…。
月乃はいつも通りゆっくり振りかぶって、投げた。
ーその瞬間、大きな音が響いた。
それはキャッチャーミットにボールが収まる音ではなかった。
バットがボールを打ち飛ばす音だった。
背筋にひやりと詰めたいものが走った。
ボールはセンターの奥へ。
…ホームラン。
亜美は何が何だか分からなかった。現実が信じられなかった。
月乃がホームランを打たれるなんて、有り得ない。
これが、高校野球…?
「南田風太郎はいいバッターだ。打たれても仕方ない。次は、サードの南田雷太郎。弟の方だ。こっちもあなどれないぞ」
月乃が投げたストレートはあっさりとレフト前に運ばれた。
六番、ライトの五条。この副キャプテンは送りバント。
ワンアウト、ランナー二塁。
七番、レフトの若林。このキャプテンは二球目をレフトオーバーへ運び、ツーベースヒット。
一点追加。
続く八番九番は月乃の球威が勝り、見逃し三振と空振り三振。
「小松。あのピッチャーで二、3年に勝てると思ってたか?」
徳田監督が顔を正面に向けたまま言った。
亜美は答えることができない。
「だとしたら、お前も相当なバカだ」
冷たく放たれる言葉。
悔しくて、亜美は握り拳をつくる。
一年生チームの攻撃は四番の月乃からだ。
イライラしている様子の月乃がバッターボックスに立つと不思議と亜美にもパワーが伝わってきた。
月乃はピッチャーだけでなく、バッターとしても一流だ。
対するピッチャーは三年生の入間。
今までの相手とは違う高校生が目の前に立っていても、月乃ならきっと打てる。
亜美は信じた。
そして、祈った。
入間の投げた球は低めに外れた。
ボール。
続く二球目、月乃は大きくバットを振ったが空を切った。
ストライク。
「月乃!」
亜美は大きな声で呼びかけた。
月乃が振り返る。
「力入りすぎ!もっとボールをよく見て!!」
亜美の声に、静かに月乃は頷いた。
月乃は器用にバットをくるくる回すと、バットを握り直して入間を睨んだ。
上等じゃねぇか!…挑発に乗る入間の声が
聞こえた気がした。
そして、入間が投げたボールは…
カキーン!!!
大きな音とともに空に呑み込まれていく。
レフトを大きく超えた、ホームラン。
「よっしゃぁぁぁ!!!」
思わず亜美は叫んだ。
1年生側ベンチが盛り上がる。
「よく打ったな。それに、よく打たせた」
徳田監督が亜美を見る。
言ってることの意味が分からなかった。何故なら、亜美が打たせた訳ではない。亜美は当たり前のことを言っただけだ。野球に限らず、スポーツではよく使われる言葉を言っただけだ。
けれど、そんなこと今はどうでもいい。
「はいっ」
亜美は徳田監督に向かって大きく返事をした。
月乃のホームランの後は凡打が続き、休む暇もなく三回表。
マウンドに立った月乃は本来の自分を取り戻したかのように威力が増した直球を投げ続けた。
打たれることはあっても、大きな当たりはなく、また連打を許すことも無かった。
三回、四回、五回、六回、七回。
点を加えたのは一年生チーム。
2ー4で続く八回表。
「矢吹」
徳田監督が声を出した。
「はい」
返事をして立ち上がったのは、ベンチの隅で座っていた女子で。
黒いジャージの長い髪、あの女の子で。
近くで見るとやっぱり顔立ちが整っていた。
被っている黒い帽子には、メジャーリーグチームのロゴが入っていた。
かっこいいマネージャーだ…亜美は見惚れてしまいそうになる。
「川田の投球をどう思う?」
「球に威力がありますが、それだけです」
は?それだけ?
徳田監督と矢吹と言う女子の会話に口を挟みなくなったが亜美は何とか堪えた。
「川田の欠点はどこだと思う?」
「素直すぎるところですね。次の回は必ず打たれます」
はきはきと答える矢吹を亜美は睨んだ。
あなた、何様?