「一度深呼吸しろ。大丈夫だから」

 呼吸するたびに、彼の香りが肺を満たしていく。

 優しく髪を撫でられていると、かき乱された気持ちがだんだんと落ち着いてくる。

「無理に思いだそうとしなくていい。ゆっくりでいいんだ」

「うん……」

 攻撃的だった正体不明の男のことを思い出すのは、正直怖かった。

 あの男は誰なのか。私と彼はいったいどういう関係なのか。どうして、怒ったような顔をしていたのか。

 景虎は知っていて他人のフリをしたのか。

 頭の中に次から次へと湧いてくるイメージは、私を不安にさせる。

 彼の温かさに甘え、私は考えることを放棄した。

 もう、何も思い出せなくてもいい。

 このまま景虎と一緒にいられたら……。

 景虎は私が落ち着くまで、黙って髪を撫でていてくれた。