パンデミック.新形コロナウイルス

夜のナースステーションは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、モニターの電子音と微かな空調の音だけが響いていた。
僕は、あかりの病室の隅で小さくなっていたけれど、どうしても眠れなかった。あの衝動――彼女たちの息吹が染み込んだマスクや、命の証としての唾液への執着が、暗闇の中で怪物のように膨れ上がっていたからだ。
「……もう、無理だ」
耐えきれずに病室を飛び出し、ナースステーションへ向かった。そこには、夜勤中のにこるが静かに書類に目を通していた。
僕の姿を見るなり、にこるはすべてを察したように溜息をついた。
「なに?……また、それ欲しくなっちゃったの?」
胸に鞭で打たれたような衝撃だった。図星を突かれ、言葉に詰まる僕に、にこるは呆れ半分、でも少しだけ哀れむような目で僕を見つめた。
「……またなの? しょうがないなあ。じゃあ、これだけだよ」
そう言って、彼女は自分のポケットから大切そうにしていたものを差し出してくれた。その時、奥の部屋から気配を感じて南ちゃんが現れた。僕の様子を見て、彼女は心配そうに眉を下げる。
「大丈夫?……眠れないなら、そこにいていいよ。私たちのそばに」
その優しさに甘えるように、僕は南ちゃんの唇にそっと手を伸ばした。彼女は一瞬だけ戸惑ったけれど、僕の飢えたような視線と、震える指先を感じ取ったのか、意を決したように静かに息を吐き出し、そっと……。
「……これで、気が済む?」
南ちゃんの小さな仕草に、僕は深い安堵と、言いようのない切なさに包まれた。
「……ごめん。さっきまで、あんなに命とか因果とか、偉そうな話をしていたのに。結局僕は、こんな風に誰かに縋らないと立っていられないんだ」
僕が掠れた声でこぼすと、二人は顔を見合わせた。
「そうだよね。さっき、昔の彼女に約束を破られたっていう話、してたもんね。一人でいると、その時の痛みがフラッシュバックしちゃうんでしょ。わかる気がするよ」
南ちゃんが優しく僕の肩を叩く。にこるもそれに続いて、力強く言った。
「そうだよ。だからもう、風俗なんて行かなくていいでしょう? あんたには私たちがいるんだから」
その言葉は、僕がずっと探していた「呪文」のようだった。
僕はもう一人じゃない。あの一件で僕の醜い内面をすべてぶちまけてしまったけれど、それでも彼女たちは僕を「病院の外」へと追い出さず、このナースステーションという聖域に招き入れてくれた。
僕は結局、明るい病室には戻らなかった。
ナースステーションの冷たい床に並べた毛布の上で、彼女たちに見守られながら、僕は小さく丸まった。
すぐそばで聞こえる彼女たちの寝息と、夜勤の穏やかな気配。
風俗のピンク色の毒々しいライトも、砕け散ったガラスの冷たさも、今は遠い世界の出来事のようだった。
泥のような人間の業も、弱さも、すべてこの夜の静寂が包み込んでくれている。僕は、まるで母胎に回帰したような安心感の中で、ようやく重い瞼を閉じることができた。