パンデミック.新形コロナウイルス

病院のエントランスをくぐると、消毒液と無機質な空気が私を包み込んだ。
癌という病魔は去った。けれど、そこから私を蝕み始めた「喪失感」という名の毒は、抗がん剤ではどうにもならないほど深く、静かに身体を回っていた。
「……もう、帰したくない」
主治医の判断は早かった。私が独りになった時、どれほど脆く崩れ去るか、瞳の奥の絶望を見て取ったのだろう。
自宅へ帰るという選択肢は消え、またしてもあの冷たい白い壁に囲まれた病室へ戻ることになった。自殺を防ぐための隔離。そんな言葉が頭をよぎるけれど、今の私には抵抗する気力も残っていない。
ナースステーションの奥で、忙しなく電話が鳴る。
「……はい、こちら心療内科です。ああ、正夫さん。……ええ、そうなんです。急患です」
看護師の控えめな声が、廊下に響く。
名前を聞いて、私はぼんやりと窓の外を見た。正夫さん。以前、乳がんの告知を受けてから何度かお世話になった、あの穏やかなカウンセラーの正夫さんだ。
「……ええ、奥さんの茜さんにも伝えておきます。明日の朝一番で、茜さんにカウンセリングの枠をお願いできますか? そうです、彼女……彼女の心が、今にも砕けてしまいそうなんです」
電話越しに聞こえる声は聞き取れないけれど、正夫さんが茜さんに緊急の引き継ぎをしていることが伝わってくる。
茜さん。
いつも優しく、私のまとまらない言葉を糸を紡ぐように聞いてくれた人。
私は病室のベッドに倒れ込んだ。シーツの冷たさが、今の唯一の現実だ。
明日から、茜さんと話す。
おっぱいを失ったこと、愛する人に捨てられたこと、そして、私が私を消してしまいたいと願ってしまうこと。
そのすべてを、打ち明けなければならない。
明日が来るのが怖いような、どこか救いを求めているような、そんなあやふやな感情の中で、私は重く湿った瞼を閉じた。