白い消毒液の匂いが鼻をつく。病院の廊下に響く足音さえ、今の私には鋭利な刃物のように聞こえる。
「俺は、一生お前を支えるよ」
あの日、診察室を出た彼が、私の肩を抱き寄せた時の温もり。ステージ3から4という宣告を受け、視界が真っ白に染まった私を、彼は誰よりも深く包み込んでくれた。看護師さんたちも、同室の皆も、「あんなに優しい婚約者がいて幸せね」と口を揃えた。私もそう信じていた。彼こそが、この絶望的な暗闇で唯一の手がかりだと。
全摘手術が決まった。女性としての身体を失う恐怖に震える私を、彼は必死に励ましてくれた。「命さえあればいい。形なんて関係ない」。その言葉に、何度救われたかわからない。私は心の底から彼を信じ、彼との未来だけを頼りに生きていた。
けれど、本当の地獄は、身体が癒え始めた頃に始まった。
あれほど熱心だった見舞いの頻度が、目に見えて減っていった。一度、二度、三度。彼からのメールは冷淡な事務連絡に変わり、電話の回数は指で数えられるほどになった。そして、ついに彼は現れなくなった。
最後に彼が私の前に立った時、その瞳には慈しみのかけらもなかった。ただ、嫌悪と、そして何かを「ゴミ」でも見るような冷ややかな光が宿っていた。
「……もう、無理だ」
彼の口から出たのは、別れの言葉だった。
「お前のおっぱいがなくなった姿を想像して、俺は……もう、女として見られなくなった。胸のないお前なんて、ただの病人だろ。そんな奴と結婚して、俺が幸せになれるわけがない」
心臓を直接握りつぶされるよりも痛かった。彼が愛していたのは「私」ではなかった。彼が愛していたのは、彼の欲望を満たすための「記号としての女」であり、病を抱えた人間としての私ではなかったのだ。
みんな、騙されていた。この優しさは、愛ではなかった。自分の都合のいい女を愛している自分自身を、彼は愛していただけだったんだ。
私は、剥き出しになった胸の傷跡を押さえながら、病室で震える。この痛みが、彼が私に遺した唯一の真実。
「愛なんて、脆いものね」
私は誰に聞かせるでもなく、唇を噛み締めた。外では雨が降っている。私の体から、命の形が少しずつ削ぎ落とされていく。彼が守ると誓ったはずの私の心は、今、彼の手によって木端微塵に砕かれた。
それでも、私は明日も生きなければならない。私を「記号」としてしか見られなかった彼を、私の物語の中で、惨めな道化師として書き換えてやる。それが、今の私が唯一できる復讐なのだから。
「俺は、一生お前を支えるよ」
あの日、診察室を出た彼が、私の肩を抱き寄せた時の温もり。ステージ3から4という宣告を受け、視界が真っ白に染まった私を、彼は誰よりも深く包み込んでくれた。看護師さんたちも、同室の皆も、「あんなに優しい婚約者がいて幸せね」と口を揃えた。私もそう信じていた。彼こそが、この絶望的な暗闇で唯一の手がかりだと。
全摘手術が決まった。女性としての身体を失う恐怖に震える私を、彼は必死に励ましてくれた。「命さえあればいい。形なんて関係ない」。その言葉に、何度救われたかわからない。私は心の底から彼を信じ、彼との未来だけを頼りに生きていた。
けれど、本当の地獄は、身体が癒え始めた頃に始まった。
あれほど熱心だった見舞いの頻度が、目に見えて減っていった。一度、二度、三度。彼からのメールは冷淡な事務連絡に変わり、電話の回数は指で数えられるほどになった。そして、ついに彼は現れなくなった。
最後に彼が私の前に立った時、その瞳には慈しみのかけらもなかった。ただ、嫌悪と、そして何かを「ゴミ」でも見るような冷ややかな光が宿っていた。
「……もう、無理だ」
彼の口から出たのは、別れの言葉だった。
「お前のおっぱいがなくなった姿を想像して、俺は……もう、女として見られなくなった。胸のないお前なんて、ただの病人だろ。そんな奴と結婚して、俺が幸せになれるわけがない」
心臓を直接握りつぶされるよりも痛かった。彼が愛していたのは「私」ではなかった。彼が愛していたのは、彼の欲望を満たすための「記号としての女」であり、病を抱えた人間としての私ではなかったのだ。
みんな、騙されていた。この優しさは、愛ではなかった。自分の都合のいい女を愛している自分自身を、彼は愛していただけだったんだ。
私は、剥き出しになった胸の傷跡を押さえながら、病室で震える。この痛みが、彼が私に遺した唯一の真実。
「愛なんて、脆いものね」
私は誰に聞かせるでもなく、唇を噛み締めた。外では雨が降っている。私の体から、命の形が少しずつ削ぎ落とされていく。彼が守ると誓ったはずの私の心は、今、彼の手によって木端微塵に砕かれた。
それでも、私は明日も生きなければならない。私を「記号」としてしか見られなかった彼を、私の物語の中で、惨めな道化師として書き換えてやる。それが、今の私が唯一できる復讐なのだから。
