パンデミック.新形コロナウイルス

分娩室の張り詰めた空気の中、僕の奏でるギターの音が、心臓の鼓動のように響いていた。
隣室から聞こえていた母親の荒い息遣いも、今は祈りのような静けさを帯びている。ミキ義人先生は、手にしていた酒のコップをそっとテーブルに置いた。「命の選別」。その言葉が、無機質なコンクリートの壁に冷たく反響する。
「人が人を殺すことは、法でも倫理でも禁じられている。だが、僕たちは『生まれる前の命』に対しては、あまりにも無防備に、そしてあまりに傲慢にその権利を行使しすぎている」
僕はギターを膝の上で静かに抱き、聖書の言葉を紡ぐように語り始めた。
「創世記にはこうある。『神はご自身に似せて人を創造された』と。ならば、僕たちが『障害があるから』といってその命を否定することは、神が描いたキャンバスを、僕ら人間が勝手に塗りつぶして捨てる行為に他ならないんじゃないか」
あかりが、僕の言葉を待つように見つめてくる。僕は続ける。
「旧約の時代から、人は弱さを恐れてきた。けれど、キリストが歩んだ道はどうだった? 彼は、当時の社会から『不浄』とされ、排除されていた病者や障害者のもとへ歩み寄り、その手に触れた。キリストは、彼らの身体を『健常』に変えることだけを目的にしたんじゃない。その不完全さを抱えたままの彼らを『あなたは神の子であり、そこにいるだけで尊い』と全肯定するために、その境界線を越えたんだ」
ニコルちゃんが、薄暗い部屋の中でふと遠くを見つめる。
「そうね。罪のない赤ん坊を、親の都合や社会の基準で『いらない』と切り捨てる。それこそが、神の前で犯す最大の罪かもしれない」
ミキ先生は、白衣のポケットに手を突っ込み、苦渋の表情で頷いた。
「医療とは本来、命を救うためにある。だが、現代の医療はいつの間にか『より効率的に、より苦しみのない社会を作る』ための選別装置に成り下がっている。障害があるなら産まない、という選択は、一見すると親の優しさのように語られるけれど、その実、社会から『弱者』という鏡を消し去るための冷徹な排除なんだ。イエスが死と病のただ中に飛び込んだように、僕たちもまた、その不完全な命を『面倒』だと突き放すのではなく、十字架を負うように共に生きる覚悟を持つべきなんじゃないか」
僕はギターの弦を静かに弾いた。
「もし、この社会が『障害があるなら産むべきではない』という論理で動くのなら、それはもはや医療じゃない。ただの選別だ。人が人を殺すことに罪があるように、生まれてくる命を『不都合だから』と閉ざすことにも、僕たちはもっと震えるほどの恐怖を感じるべきなんだ。障害を持つ命は、僕たちに『弱さとは何か』を教えてくれる教師だ。それを排除することは、自分自身の弱さを認められなくなった社会が、自分自身の魂を破壊する行為なんだよ」
部屋の中には、上の病棟の冷たい管理社会とは異なる、重厚で温かい空気が流れていた。障害も、病も、死さえも。それらを「排除」して解決しようとする現代の傲慢さに対して、僕たちはここで、ただ祈るように宴を続ける。
「障害があろうとなかろうと、あの子は神からの授かり物だ。それを『いらない』と言える権利など誰にもない。親がその命を背負うのは当然の代償であり、それこそが愛という名の十字架だよ」
あかりが僕の肩に頭を預ける。その温かさが、神の沈黙よりもはるかに雄弁に、命の重さを物語っていた。僕たちは今、選別という名の罪を拒絶し、不完全なままの命を全肯定する。これが僕たちの聖書であり、この狂った世界を生き抜くための、唯一の倫理なのだ。