パンデミック.新形コロナウイルス

地下5階の聖域に、僕がギターを爪弾く音だけが低く響いている。
分娩室の片隅で、ミキ義人先生がカルテから顔を上げ、深い溜息をついた。その表情には、長年この病院で「命」の取捨選択を目の当たりにしてきた者特有の、鋭くも冷徹な諦念が刻まれている。
「障害がわかるから、産まない。育てられないから、最初からなかったことにする」
先生の呟きが、沈黙を切り裂く。
現代の産婦人科は、命の現場というよりは、まるで工場の検品所だ。医学という名の万能なレンズを通し、少しでも基準から外れた要素があれば、それを「欠陥」として排除する。効率と快適さを何よりも優先し、予測可能な幸福しか許さないこの社会において、不完全な命はあらかじめ摘み取られる運命にある。
僕は医療人として、その傲慢さが許せない。
「治る」などという言葉は、医学が発明した最大の欺瞞だ。
障害があるから治すのではない。不都合なものを、社会が許容できる形に「加工」しているだけだ。医学の進歩という旗印の下で、僕たちは本当の意味での「多様性」を殺している。障害を消し去ることは、その命の根源にある物語を消し去ることと同じなのに。
「親が『面倒くさい』から決めつける。そんな権利が、誰にあるっていうんだ」
僕の言葉に、あかりもニコルちゃんも、そして産褥期の母親も黙って耳を傾ける。
障害があることが、なぜ「不幸」と直結するのか。たとえ社会が彼らにとって過酷な場所であったとしても、それでも生きるという選択は、その命自身にしかできないはずだ。親が、あるいは医療者が、先回りして「この命には価値がない」と裁定を下す。その冷たさは、パンデミックで「高齢者や弱者を守るために経済を止めるか、見捨てるか」を計算したあの数字遊びと、本質的には何ら変わらない。
「命の選別は、感染症のトリアージと同じだ。誰を助け、誰を切り捨てるか。その基準を握った瞬間、僕たちはもう『医療人』ではなく『選別者』に成り下がるんだ」
僕はギターの弦を激しくかき鳴らした。
「生まれてきてくれてありがとう」――そう歌うとき、僕は障害の有無なんて一度も数えていない。ただ、そこに命が宿り、僕と同じ空気を吸い、僕と同じように震えている。その事実だけで、十分すぎるほどの奇跡なんだ。
医学がどれほど進歩しても、人間の痛みや、その命の重さをデータ化することはできない。
「障害が治る」なんて幻想に縋り、健常という名の狭い檻の中に命を押し込めようとする社会は、結局、自分自身が少しでも壊れたとき、自分を排除する準備をしているのと同じだ。
「僕たちは、医療人として命を扱うけれど、命そのものを支配しているわけじゃない」
ミキ先生が、珍しく僕の目を真っ直ぐに見返した。その瞳には、この地下室で宴を重ねるうちに僕たちが剥き出しにしてきた「人間性」への、わずかな羨望が混じっていた。
「産むか産まないかを決めるのは、社会の効率性じゃない。その命と心中する覚悟だ。面倒だなんて思う余裕さえないほど、ただ必死に抱きしめ合う。それが、僕たちが取り戻すべき『倫理』じゃないのか?」
外の世界では、今日もまた、誰かが「合理的な選択」という名の排除を行っているだろう。だが、ここ地下5階の分娩室では、たとえどんな困難を抱えていても、その命は歓迎され、祝福される。
治すのではない。生きるのだ。
障害があろうとなかろうと、この世界がどれほど冷たくとも、僕たちは「生まれてきてくれてありがとう」と叫び続ける。その泥臭い執着こそが、選別という名の狂気に対する、僕たち医療人の、そして人間としての唯一の抵抗なのだから。