パンデミック.新形コロナウイルス

地下5階の分娩室は、無機質な消毒液の匂いと、母親の荒い呼吸、そして産まれたばかりの赤ん坊の命の熱気で満ちていた。
「コロナ陽性。母子分離。赤ん坊は直ちに上の病棟へ」
ミキ先生の冷徹な指示に従い、陰性であった赤ん坊は、母親の肌に触れることも許されず、防護服に包まれたスタッフの手によってエレベーターへと運ばれていった。無慈悲な扉が閉まる。母親は、ウイルスという見えない壁によって、産んだばかりの我が子から物理的に引き剥がされた。
そのあまりに理不尽な光景に、僕たちの胸の中で何かが弾けた。
「歌おう。あの子が遠くへ行く前に」
僕は震える手で楽器を抱え、以前この閉塞した世界への怒りと祈りを込めて作った曲、「生まれてきてくれてありがとう」を奏で始めた。あかり、南ちゃん、ニコルちゃんが僕を取り囲む。僕たちはマスクを投げ捨て、喉が張り裂けんばかりの熱量で、その母親に向けて歌を叩きつけた。
「会えない距離が、愛を弱くするなんて嘘だ。今、君が吸ったこの空気の重さが、すべてを証明している」
たった5分間の祝福だった。しかし、その歌声は地下室の空気を塗り替え、分断された母親の瞳に、デジタルな情報には決して変換できない「生」の光を灯した。
エレベーターが上の階へ消え、赤ん坊が完全に視界から失われた後も、僕たちは動かなかった。残されたのは、孤独という名の隔離棟に取り残された母親と、彼女の周囲に陣取る僕たちだ。
「……よかった。声、届いたよ」
あかりがそう呟き、母親の枕元に寄り添う。彼女の温もりは、機械による数値管理しか受けられない上の階の赤ん坊にはない、何にも代えがたい「人間」のぬくもりだった。
ミキ先生は、医師としての冷徹な立場と、一人の人間としての感情の間で揺れ動きながら、僕たちの輪に酒を添えた。彼は「対策」を説くプロとしての顔を仮面にし、僕たちの泥臭い宴に身を浸している。ここには、上の病棟のような清潔で無機質な「安全」はない。けれど、呼吸を重ね、笑い合い、誰かの吐息を共有する、最強の「免疫」がある。
「見ててね」
ニコルちゃんが母親の震える手を握る。
「この子が戻ってきたとき、あなたは絶対にここから這い上がれる。私たちが歌い続ける限り、この繋がりは絶対に切れないから」
上の病棟では、冷たい空気循環が赤ん坊の心拍を管理しているだろう。しかし、ここ地下5階には、ウイルスさえも踏み越えていく、血の通った人間たちの熱がある。
引き裂かれた親子。分断を強いる世の中。
それでも僕たちは、ポケットの中に彼女たちのマスクをしまい込み、母親の傍らで宴を続ける。この物語は、清潔な檻から脱出するための、泥だらけの闘争だ。分断されたからこそ、再会した時のぬくもりは、何倍にも膨れ上がる。
僕たちは、ウイルスという脅威を「対策」で排除するのではない。この熱と、摩擦と、生の肯定によって、世界を内側から溶かしていくのだ。
「乾杯」
僕たちは笑う。たとえ明日にはまたマスクを被らなければならないとしても、この地下室で共有した「人間であることの重み」は、何人たりとも奪うことはできない。そう信じて、僕らは再び、母親の回復を願う歌を響かせた。