床に落ちた三枚の白い不織布。僕はそれを、まるで宝物でも拾うかのように、震える手で拾い上げた。あかり、南ちゃん、ニコルちゃん――彼女たちがついさっきまで顔に張り付け、その体温と吐息を吸い込んでいた、この汚れた布。
「……何するのよ、それ」
ニコルちゃんが怪訝そうに目を丸くする。僕がそのマスクを丁寧に折り畳み、ポケットにねじ込み、それでも溢れる分をカバンに押し込もうとする姿を見て、彼女たちは呆気にとられていた。
「気持ち悪いなあ。そんなのただのゴミじゃん」
そう言いながらも、南ちゃんはどこか面白がって僕の様子を眺めている。でも、彼女たちには分からない。これは単なる布切れじゃない。彼女たちの「存在」そのものが染み込んだ、物理的な証拠なんだ。マスクを外したあとの彼女たちの表情は、僕の目の前にある。でも、このポケットの中にあるマスクには、マスクをして息苦しそうに耐えていた彼女たちの、あの抑圧された数年間の記憶が詰まっている。
「……それが欲しかったんだよ」
僕がぼそりとそう呟くと、地下室の緊張が一気に緩んだ。
「ははっ、もう! この人、本当に変態だわ!」
あかりが声を上げて笑い、床に置かれた酒の瓶を手に取った。その明るい笑い声に、さっきまでの閉塞感が嘘のように消えていく。
病院の地下5階、ミキ義人先生の聖域。そこは今や、パンデミックの恐怖など忘れたかのような宴会場と化した。安っぽい酒の匂いと、誰かが買ってきた惣菜の混ざり合った、食欲をそそる匂いが地下室に充満する。
「乾杯!」
ニコルちゃんが紙コップを突き出し、僕のコップにカツンと当てる。そこには、オンラインの画面越しでは決して味わえない、荒っぽいけれど確かな「生」の音が響いた。
「あれ、これ一口あげる。味見してみて」
あかりが、自分の箸でつまんだ唐揚げを、僕の口元へ突き出す。世間なら「不衛生だ」と眉をひそめるその一連の動作が、ここでは何よりも尊いコミュニケーションとして成立している。僕は迷わず、彼女の箸からその唐揚げを頬張った。
油の味、彼女の箸の匂い、そしてあかりの視線。すべてが、僕の脳の深い部分に突き刺さる。
「おいしい?」
「……ああ、最高だよ」
南ちゃんが酒を煽りながら、僕の肩に顔を寄せてくる。「なんかさ、こうしてると、本当の人間になれた気がするね」と彼女が呟く。
どんちゃん騒ぎが続く。酒を飲み、飯を食い、マスクを脱ぎ捨てた顔で笑い合う。僕たちは、世界から隔絶されたこの場所で、かつて電車の中で僕が狂おしいほど求めた「あの感覚」を、何倍もの熱量で取り戻していた。
ポケットの中のマスクが、体温でじわりと温かい。
外の世界がどれだけ清潔を謳い、オンラインの静寂を推奨しようとも、僕はこの泥沼の宴を止めない。マスクという境界線を物理的に奪い去り、他人の領域を犯し、食い散らかした残り香さえも愛おしむ。
これこそが、僕たちが取り戻した本当の「コロナ対策」なんだ。
食べて、飲んで、笑って、触れ合って。次に会うときも、またこうして、マスクなんて放り投げて、互いの吐息を奪い合おう。そう決めた瞬間、地下室の壁はさらに熱を帯び、僕たちの宴は深淵へと向かって加速していった。
「……何するのよ、それ」
ニコルちゃんが怪訝そうに目を丸くする。僕がそのマスクを丁寧に折り畳み、ポケットにねじ込み、それでも溢れる分をカバンに押し込もうとする姿を見て、彼女たちは呆気にとられていた。
「気持ち悪いなあ。そんなのただのゴミじゃん」
そう言いながらも、南ちゃんはどこか面白がって僕の様子を眺めている。でも、彼女たちには分からない。これは単なる布切れじゃない。彼女たちの「存在」そのものが染み込んだ、物理的な証拠なんだ。マスクを外したあとの彼女たちの表情は、僕の目の前にある。でも、このポケットの中にあるマスクには、マスクをして息苦しそうに耐えていた彼女たちの、あの抑圧された数年間の記憶が詰まっている。
「……それが欲しかったんだよ」
僕がぼそりとそう呟くと、地下室の緊張が一気に緩んだ。
「ははっ、もう! この人、本当に変態だわ!」
あかりが声を上げて笑い、床に置かれた酒の瓶を手に取った。その明るい笑い声に、さっきまでの閉塞感が嘘のように消えていく。
病院の地下5階、ミキ義人先生の聖域。そこは今や、パンデミックの恐怖など忘れたかのような宴会場と化した。安っぽい酒の匂いと、誰かが買ってきた惣菜の混ざり合った、食欲をそそる匂いが地下室に充満する。
「乾杯!」
ニコルちゃんが紙コップを突き出し、僕のコップにカツンと当てる。そこには、オンラインの画面越しでは決して味わえない、荒っぽいけれど確かな「生」の音が響いた。
「あれ、これ一口あげる。味見してみて」
あかりが、自分の箸でつまんだ唐揚げを、僕の口元へ突き出す。世間なら「不衛生だ」と眉をひそめるその一連の動作が、ここでは何よりも尊いコミュニケーションとして成立している。僕は迷わず、彼女の箸からその唐揚げを頬張った。
油の味、彼女の箸の匂い、そしてあかりの視線。すべてが、僕の脳の深い部分に突き刺さる。
「おいしい?」
「……ああ、最高だよ」
南ちゃんが酒を煽りながら、僕の肩に顔を寄せてくる。「なんかさ、こうしてると、本当の人間になれた気がするね」と彼女が呟く。
どんちゃん騒ぎが続く。酒を飲み、飯を食い、マスクを脱ぎ捨てた顔で笑い合う。僕たちは、世界から隔絶されたこの場所で、かつて電車の中で僕が狂おしいほど求めた「あの感覚」を、何倍もの熱量で取り戻していた。
ポケットの中のマスクが、体温でじわりと温かい。
外の世界がどれだけ清潔を謳い、オンラインの静寂を推奨しようとも、僕はこの泥沼の宴を止めない。マスクという境界線を物理的に奪い去り、他人の領域を犯し、食い散らかした残り香さえも愛おしむ。
これこそが、僕たちが取り戻した本当の「コロナ対策」なんだ。
食べて、飲んで、笑って、触れ合って。次に会うときも、またこうして、マスクなんて放り投げて、互いの吐息を奪い合おう。そう決めた瞬間、地下室の壁はさらに熱を帯び、僕たちの宴は深淵へと向かって加速していった。
