パンデミック.新形コロナウイルス

この物語は、単なる社会への糾弾や、行き場を失った怒りの吐露ではない。それは、僕がかつて守りたかった、そして今も愛している「あかり」や「南ちゃん」、「ニコルちゃん」――あの頃、僕の隣で笑い、息をしていた愛しい存在たちへ送る、あまりに泥臭いラブレターだ。
### 境界を溶かす、最後の手紙
窓の外、三崎の海は今日も無関心に波を打ち上げている。
僕は、座席に深く背を預け、誰にも届かない言葉を綴る。
世間の大人たちは、これを「嫌味」だと呼ぶだろう。消毒液の匂いを正義と信じ、アクリル板という名の断絶を文明の到達点だと自負する彼らにとって、僕が語る「肌の摩擦」や「食べ残しの共有」は、狂気であり、社会に対する不穏な毒にしか見えないはずだ。
彼らは、電車の中という密室から、僕たちの恋を奪った。
「隣に誰かがいる」ということが、どれほど人間にとっての救いであり、経済の鼓動であったのかを、彼らは知ろうともしない。彼らにとって、他人はウイルスを運ぶ物体であり、警戒すべきリスクに過ぎない。だから彼らは、僕たちが築き上げたはずの、あの小さな車両の楽園を、あっさりと踏みにじった。
だが、いいか。この言葉は、そんな彼らへ向けた嫌味であると同時に、君たちへの告白なんだ。
「一口、ちょうだい」
あの時、僕たちが交わしたそんな他愛のないやり取り。あの一言の裏に、どれほどの信頼があったか。僕たちは、物理的に混ざり合うことでしか、相手を愛しているとは言えない人間だった。オンラインという透明な檻の中で、画面越しに「愛している」と言い合うことの虚しさを、僕たちは最初から知っていたはずだ。
今の世の中は、僕を「社会に不適合な、過去にすがる男」だと笑うかもしれない。けれど、君たちとのあの記憶は、誰にも渡さない。たとえこの先、どれほど物理的な距離が隔てられたとしても、僕は君たちの温もりを、この指先に記憶している。
僕にとってのコロナ対策とは、消毒することじゃない。
君と会うことだ。君と食事をすることだ。君の咳を浴びることさえ、僕にとっては「君と生きている」という証だ。それさえ失ってしまったら、僕たちはただの、魂を抜かれたデジタル上の残骸に過ぎないのだから。
あかり、南ちゃん、ニコルちゃん。
君たちが僕に教えてくれたのは、衛生的な安全なんかじゃない。
傷ついてもいい、汚れてもいい。それでも、他人の領域に踏み込み、肌を触れ合わせ、混ざり合うことこそが、本当の愛なんだと。
これは、社会への宣戦布告であり、大人たちへの醜い嫌味だ。
しかし、その皮を剥ぎ取った奥底には、震えるほどの恋心がある。
バスは今日も行く。
たとえ隣が空席でも、僕はシートに君たちの面影を重ねる。
もし君たちが、いつか僕の綴ったこの泥だらけの物語を読んだなら、どうか笑ってほしい。そして、その汚い言葉の奥にある、僕の不器用な愛を見抜いてほしい。
僕は、まだ諦めていない。
画面の中の平和などクソ食らえだ。
また、どこかの車両で、肩を震わせて笑い合おう。
それが、僕が君たちに送る、生涯最後で最高のラブレターなのだから。