パンデミック.新形コロナウイルス

かつて書いた前半の物語は、まるで遠い過去の、別人が記した記録のようだ。「感染さえ防げればいい」「人を排除すれば守れる」――そんな清潔で無機質な正義を振りかざしていた頃の僕を、今の僕は痛烈に恥じている。そんな予防線だらけの言葉に、誰の心も震えるはずがなかった。
しかし、40ページから先、物語は牙を剥き始めた。これはフィクションという名の、僕自身の懺悔であり、血の通った叫びだ。
「あれ、一口ちょうだい」
かつては当たり前だったそんな一言が、今の社会では「汚らわしい」「非常識だ」と蔑まれる。他人の唾液や息吹を遠ざけることが、まるで教養であるかのように振る舞われている。だが、それこそが僕たちが人間関係の最も重要な「センサー」を自ら壊している行為なのだ。
食べ物を分け合う。誰かが残したものを口にする。その泥臭い行為の裏には、相手の食欲、体調、そして「僕に心を開いている」という無言の証明があった。物理的な境界線を侵犯することでしか、他者の内面という聖域には触れられない。それを「汚い」と切り捨てた瞬間、僕たちは相手の痛みを想像する回路を断ち切ったのだ。
デジタル化の波は、その断絶を加速させた。TikTokの動画を指先一つでスワイプするように、僕たちは他人の人生を消費している。次から次へと流れてくる他人の感情を、ただ受動的に眺めるだけ。共感ではなく、ただの視覚情報の処理。だからこそ、画面の中の誰かが突然暴走しても、どこか他人事のようにしか感じられない。
「ねえ、本当に君はそこにいるの?」
僕が物語の中でそう問いかけるとき、それは画面の向こう側にいる読者だけでなく、かつて僕の隣で息をしていた誰かに向けての問いだ。
僕が書くこの続きは、清廉潔白な物語ではない。汗の匂いがして、時々吐き気がするほど生々しく、そして時々、相手の食べ残しを共有することにすら激しい愛おしさを感じるような、そんな泥沼の記録だ。
オンラインで構築された関係は、どれだけ言葉を尽くしても、結局は「情報」でしかない。会ったこともない相手の人生を想像するなんて、画面の中では不可能だ。だからこそ、僕は書く。物理的な摩擦、食べ物を分かち合う時の緊張感、相手の吐息が自分の頬にかかるあの不快で甘美な感覚。
「汚いと言われても構わない。それこそが、僕たちがまだ人間であるという証拠なんだ」
物語が進むほど、現実の僕は孤独になるかもしれない。けれど、ページをめくるごとに、かつての温もりが、冷え切った今の社会を内側から食い破っていく。オンラインのきれいごとなんて、全部燃やしてしまえばいい。僕たちは、もっと汚れて、もっと他人の領域に踏み込まなければならないのだから。
これは、清潔な檻から脱出するための、泥だらけの逃走劇だ。