パンデミック.新形コロナウイルス

学問の果てに、自分の病が治らないという現実を突きつけられた時、秋生の中に湧き上がったのは絶望ではなく、ある種の安堵だった。
この病院を出るということは、あかりのいる無菌室や、ニコル、そして浜辺美波がいるこの地下の聖域から引き剥がされることを意味する。そんな世界に、戻る理由などどこにもなかった。
「もう、退院はしない」
秋生はそう決めた。地上の病棟を「退院」し、管理の外側にある地下の、かつて休憩室だったその個室を、正真正銘の自分の家にしたのだ。
ここには、地上の世界を覆う息苦しいマスクも、他人との距離を強いる隔絶もない。地下の深い階層が、外界の感染症や冷たい規律をすべて遮断しているからだ。
ニコルや南ちゃん、そしてガラスの向こうのあかりと語り合う時、その吐息や飛沫が肌にかかる距離感こそが、秋生にとっては救いだった。マスクで顔を隠し、誰かの存在を飛沫として忌避する地上の常識とは無縁の場所。ニコルが笑いながら話す時、その口元から飛ぶわずかな雫さえ、彼女が確かにそこに存在しているという愛おしい証明だった。
朝になれば、秋生はこの地下から学校へ通う。そして夜が更けると、地下の回廊を通り、再びこの「家」へ戻ってくる。
地上の大人たちは、彼が退院してどこか別の日常へ消えたと思っている。だが、彼は地下という名の別の宇宙に根を下ろしたのだ。
正男が作った改造バスが子供たちの笑い声を乗せて走り、あかねが誰かの痛みに寄り添い、ニコルがその温もりを分かち合う。そんな閉鎖的で、しかし何よりも人間味に溢れたこの地下で、秋生は初めて「ただいま」と言える場所を見つけた。
もう、誰かに何かを隠す必要はない。ここでは呼吸する飛沫さえも、お互いを繋ぎ止める絆になる。秋生は地下3階の個室のドアを閉め、地上の光が届かないこの場所で、本当の自分の生活を始めた。