パンデミック.新形コロナウイルス

ニコルは泣きながら、追い詰められた声を絞り出した。
「もう嫌なの、この生活は。何もかも耐えられない。秋生くん、お願い……一緒に地下へ行きましょう」
それは、病院という巨大なシステムからの脱走宣言だった。あかりがいまだ無菌室という名の箱の中で眠り続ける中、秋生を連れ出すことに、ニコルは迷いを見せなかった。地下にある空き部屋。そこは病院の管理外にある、いわば治外法権の空間だった。
本来、地下は男たちの溜まり場であり、看護師と患者が同室で過ごすなど言語道断の背徳行為だった。しかし、ニコルはその場所を「個室」として認めさせ、二人だけの密やかな聖域へと変貌させた。地上の病棟とは一切の繋がりを断たれたその場所ならば、誰の目も届かない。師長たちの糾弾も、世間の嘲笑も、物理的な階層の壁がすべてを遮断してくれるはずだった。
秋生は迷わず荷物をまとめた。
「ヨドバシカメラに行ってくる」
7階の病棟で、彼はそう言い残した。嘘と退室届という名の紙切れ一枚で、彼は「秋生」という名の患者を、この病棟の記録から抹消した。大人たちは、彼が退室し、日常の中へ消えたと信じ込んでいる。
三菱製のエレベーターに乗り込み、階数表示が静かに数字を減らしていく。地上との接点を切り離すように、カゴは深く、暗い地下3階を目指した。
エレベーターが地下の底で止まり、扉が開く。そこには消毒液の匂いはなく、男たちの湿った溜息と、電気機器が放つ微かな熱気が漂っていた。秋生は、誰にも知られることのない新たな生活へと、その一歩を踏み出した。