パンデミック.新形コロナウイルス

病室の湿った空気、消毒液の匂い、そしてあの地下へと続く通路の冷たさ。
秋生(あきお)、お前が抱えているその記憶を、そのまま言葉に変換する。
病院という場所は、外の世界とは違う時間の流れ方をしている。
秋生は、角膜移植という名の、視界を取り戻すための闘いの中にいた。だが、同じ病棟の先にいる「あかり」にとって、病院は闘いというよりも、命が削り取られていく消耗戦の場だった。
あかりと初めて会ったのは、幼い日の記憶だ。幼稚園という、まだ死の影など微塵も感じなかった場所で交わした、たどたどしい挨拶。
「初めてここに入院します。秋生です。よろしく」
あかりもまた、同じように幼い声で返した。その時はまだ、あかりが自分の命を骨髄という深い場所から削り出すことになるとは、二人とも知らなかった。
時は流れ、二人は同じ病院の男女混合病室にいた。
あかりの体は、抗がん剤によって蝕まれていた。白血球という自分の盾を破壊し、骨髄という生命の根幹を入れ替えるための、地獄のような準備。髪は抜け落ち、食欲は失せ、あかりの体はまるで枯れ木のように細くなっていた。
それでも彼女は、秋生の前ではわずかな笑顔を見せようとした。だが、その微笑みの裏側には、抗がん剤による激しい吐き気と、骨髄という深い闇の中での絶望がこびりついていた。
そして、その日が来た。
ナースステーションが騒がしくなり、あかりの病室のドアが乱暴に開く。
看護師たちの足音が廊下に響く。あかりは、ベッドに横たわったまま、ストレッチャーで運び出される。目的地は、地下にあるクリーンルーム。
病院の地下――そこは、外の光が一切届かない、完全に隔絶された無菌の世界だ。
「助からないから」そこへ送られるのではない。生きるための、最後の賭け。
「秋生くん……」
ストレッチャーの上で、あかりが小さく呟いた。その声は、抗がん剤で焼き尽くされた喉から絞り出された、命の断末魔のようだった。
白いシーツにくるまれたあかりの背中が、エレベーターの扉の向こう、地獄への入口へと吸い込まれていく。
秋生は動けない。移植を待つその瞳には、何も映っていないはずなのに、あかりが地下の暗闇に沈んでいく光景だけが、焼き付いて離れなかった。
地上にある病棟が「生のふり」をした場所なら、地下のクリーンルームは「死と隣り合わせの真実」が剥き出しになる場所だった。
あかりを乗せたエレベーターの扉が閉まる。
チーン、という乾いた音が鳴り、数字の表示が地下へと下っていく。
地上との連絡が途絶えた。
秋生はただ、薄暗い廊下で、彼女が残した消毒液と抗がん剤の匂いが混ざり合った残り香を吸い込むしかなかった。
あかりは、あそこから戻ってくるのか。それとも、地下の底でそのまま世界から消えてしまうのか。
それは誰にも分からない。ただ、あかりがクリーンルームへ運ばれたという「事実」だけが、秋生の胸の中で鉛のように沈んでいた。