その診察室の空気は、靴を求めた時よりもさらに深く、重く沈黙した。
周囲の看護師や関係者たちは、文字通り息を呑んだ。それは狂気なのか、それとも純粋すぎるほどの執着なのか。僕の背中を、冷や汗が伝うのがわかった。あかりを失ってから、僕の心はどこか壊れ、正常な倫理の境界線を何度も踏み越えていた。
エリカちゃんは、脱ぎかけた靴を手に持ったまま、動きを止めた。彼女の大きな瞳が、僕の瞳をまっすぐに見つめ返す。その視線には、困惑を超えて、僕という人間の抱える「救いようのない孤独」を理解しようとするような、かすかな哀れみが宿っていた。
「……飛沫、ですか?」
彼女の声は震えていた。周囲のスタッフが僕を止めようと駆け寄る気配がする。しかし、僕は彼女の目から目を逸らせなかった。あかりが最後に見せた、あの淡い吐息の記憶。それを何とかして形に残したいという、呪いにも似た願い。
彼女は、しばらくの間、静寂の中に佇んでいた。やがて、彼女はふっと小さく溜息をつくと、僕の目の前まで歩み寄った。
「……本当に、変な先生」
彼女はそう言うと、持っていた靴を床に置き、僕の顔を覗き込んだ。そして、彼女の唇がかすかに動くのが見えた。次の瞬間、彼女の吐息が、僕の頬を撫でた。
それは、どんな薬よりも鋭く、どんな診察結果よりも僕の心臓を締め付けた。周囲からは悲鳴のような、呆れのような声が漏れたが、僕には何も聞こえなかった。ただ、彼女の体温と、その刹那の飛沫が、僕の肌に焼き付いて離れない気がした。
「これで、いい?」
彼女のその言葉に、僕はただ力なく頷くことしかできなかった。
その数年後、彼女が転落の道を歩んだというニュースを知ったとき、僕の脳裏に真っ先に蘇ったのは、あの日の彼女の冷たい美しさと、彼女が僕にくれた、あの禁断の「飛沫」の感触だった。
僕という医師は、あの一件以来、完全に壊れてしまったのかもしれない。あかりを求め、エリカちゃんを求め、そして結局は、何も手に入れられずに、こうして無機質な点滴の雫だけを数えて生きている。
僕らは皆、生きているからこそ、何かを求めて彷徨う。それがどれほど醜く、常軌を逸した欲望であったとしても。病院の地下室で、僕はまた、彼女の残り香を探すように、ただ静かに天井を見上げていた。
周囲の看護師や関係者たちは、文字通り息を呑んだ。それは狂気なのか、それとも純粋すぎるほどの執着なのか。僕の背中を、冷や汗が伝うのがわかった。あかりを失ってから、僕の心はどこか壊れ、正常な倫理の境界線を何度も踏み越えていた。
エリカちゃんは、脱ぎかけた靴を手に持ったまま、動きを止めた。彼女の大きな瞳が、僕の瞳をまっすぐに見つめ返す。その視線には、困惑を超えて、僕という人間の抱える「救いようのない孤独」を理解しようとするような、かすかな哀れみが宿っていた。
「……飛沫、ですか?」
彼女の声は震えていた。周囲のスタッフが僕を止めようと駆け寄る気配がする。しかし、僕は彼女の目から目を逸らせなかった。あかりが最後に見せた、あの淡い吐息の記憶。それを何とかして形に残したいという、呪いにも似た願い。
彼女は、しばらくの間、静寂の中に佇んでいた。やがて、彼女はふっと小さく溜息をつくと、僕の目の前まで歩み寄った。
「……本当に、変な先生」
彼女はそう言うと、持っていた靴を床に置き、僕の顔を覗き込んだ。そして、彼女の唇がかすかに動くのが見えた。次の瞬間、彼女の吐息が、僕の頬を撫でた。
それは、どんな薬よりも鋭く、どんな診察結果よりも僕の心臓を締め付けた。周囲からは悲鳴のような、呆れのような声が漏れたが、僕には何も聞こえなかった。ただ、彼女の体温と、その刹那の飛沫が、僕の肌に焼き付いて離れない気がした。
「これで、いい?」
彼女のその言葉に、僕はただ力なく頷くことしかできなかった。
その数年後、彼女が転落の道を歩んだというニュースを知ったとき、僕の脳裏に真っ先に蘇ったのは、あの日の彼女の冷たい美しさと、彼女が僕にくれた、あの禁断の「飛沫」の感触だった。
僕という医師は、あの一件以来、完全に壊れてしまったのかもしれない。あかりを求め、エリカちゃんを求め、そして結局は、何も手に入れられずに、こうして無機質な点滴の雫だけを数えて生きている。
僕らは皆、生きているからこそ、何かを求めて彷徨う。それがどれほど醜く、常軌を逸した欲望であったとしても。病院の地下室で、僕はまた、彼女の残り香を探すように、ただ静かに天井を見上げていた。
