パンデミック.新形コロナウイルス

診察室の空気は、張り詰めた糸のように極限まで引き絞られていた。
僕がカルテを壁に向かってぶん投げた。紙の束が空中で乱れ、バサバサと音を立てて床に散らばる。カルテの中にあったはずの、無味乾燥な検査数値や投薬記録が、まるでゴミのように部屋の隅へ散らばった。
「怖いのはウイルスじゃない! 後遺症の痛みでもない!」
僕は机を叩いた。その衝撃で、聴診器が床に落ち、金属音が響く。
「本当に恐ろしいのは、人間がその『病気』や『障害』という免罪符を手に入れた瞬間に、魂の形を変えてしまうことだ。わがままになり、甘え、他者を断罪し、自分だけが被害者だと叫ぶ。それがどれほど醜いことか、本人たちは気づいていないのか!」
診察室の外では、看護師たちが驚いて足を止めた気配がした。だが、そんなことはどうでもよかった。僕が相手にしているのは、目の前の患者の病状などではなく、その背後にへばりついている「弱さ」そのものだった。
「僕だって弱い。君も弱い。だからこそ、病気や障害という『盾』を見つけたときに、それにしがみつきたくなる気持ちは分かる。でもな、それを武器にして他人を攻撃し、社会を分断し、自分の卑怯さを正当化し始めたら、そこでおしまいなんだよ」
僕は床に散らばったカルテの一枚を拾い上げた。そこには、数ヶ月前まで健やかに働いていた患者の過去が記されている。
「お前は、病気になる前はもっと静かで、他人の痛みに敏感な人間だったはずだ。なぜ、そうなってしまったんだ。なぜ、自分をそんなに安っぽく扱ってしまうんだ」
患者は震える手で顔を覆い、小さく嗚咽を漏らした。それは、社会に対して強がって見せていた鎧が、ようやく剥がれ落ちた音だった。
「……先生、どうすればいいんですか。もう、普通の自分に戻る方法が分からないんです」
「戻らなくていい。ただ、その『盾』を一度、床に置いてみろ」
僕は散らばった紙の山を指さした。
「病気であることと、わがままであることは別だ。障害があることと、人間性を捨てることは同じじゃない。俺たちが闘わなきゃいけないのは、ウイルスじゃない。そんな風に、自分を『被害者という檻』に閉じ込めてしまう、自分自身の心の弱さだ」
地下からは、相変わらず点滴の雫が規則正しく響いている。僕たちは皆、そうやって自分を騙し、誰かのせいにし、時に叫び、時に静かに腐敗していく。
診察室には、僕の荒い呼吸と、患者の静かな泣き声だけが残った。床に散らばったカルテは、もはや意味をなさない紙屑に過ぎない。僕たちはようやく、医師と患者という役割をかなぐり捨てて、一人の人間として、この不毛な荒野に立ち尽くしていた。