パンデミック.新形コロナウイルス

診察室の扉を閉め切り、僕はカルテを放り出した。聴診器のチューブが首元で冷たく揺れている。目の前には、表情を凍らせたままの患者。僕はその前で、もう一度、絞り出すように歌った。
「僕らはみんな生きている……」
声はかすれ、少しだけ震えた。診察室という名の、冷徹な「正解」を要求される場所に、歌という名の「感情」を持ち込むなんて、医師失格かもしれない。だが、そんなことはどうでもよかった。
「先生、止めてください。……そんな風に歌われると、胸が苦しい」
患者が、点滴のスタンドを握る手を白くさせて言った。
「苦しいだろう。それが感情だ。日本人は、この国に生きる僕たちは、いつからこんなに感情を『汚いもの』だと決めつけてしまったんだ」
僕は椅子を回し、窓の外の灰色の空を指さした。
「悲しいときに悲しいと言えない。助けてほしいときに、喉元で言葉を飲み込む。嬉しいときさえ、周囲の目を気にして感情のボリュームを絞る。僕らはみんな、生身の人間なのに、まるで感情という毒を排出するように、日々をやり過ごしている」
コロナという災厄が、この歪みを決定的にあぶり出した。誰もが「自粛」という名の下に、他人の感情を監視し、自分の感情を検閲する。誰かの後遺症を羨み、誰かの不幸を糾弾する。そんな泥沼の中で、僕らは「思いやり」という言葉すら、自分たちを守るための盾へと変えてしまった。
「この病気はね、ウイルスが運んできたものじゃない。僕たちが、自分自身を抑えつけることで育ててしまった病理なんだ。感情を殺せば殺すほど、体は正直に悲鳴を上げる。それが、この病院の地下に溢れる『後遺症』の正体じゃないのか」
僕は歌うのをやめ、静かに患者を見つめた。
「勉強会で学んだマニュアルや、国が提示する補償の指針なんて、何の役にも立たない。そんなものにすがっているから、僕らは自分で自分を壊していくんだ」
診察室には、僕の荒い呼吸だけが残った。歌い終わったあとの空気は、どこまでも重い。だが、患者の瞳からは、先ほどまでの硬い鎧が消えかけていた。彼は自分の胸に手を当て、深い息を吐き出す。その震える肩こそが、彼がようやく自分自身の「悲しみ」と向き合い始めた瞬間だった。
僕はカルテを手に取り、あえて何も書き込まなかった。この記録すべき言葉は、紙の上にはない。僕たちが、いかにしてこの不自由な世界で、もう一度人間として泣き、笑うか。
その小さな戦いの記録が、病院の冷たい廊下へと溶け出していく。