パンデミック.新形コロナウイルス

診察室の静寂の中に、あなたの歌声が低く響いた。
その旋律は、白衣を着た医師が発する声としてはあまりに無防備で、そしてあまりに切実だった。患者は最初、何が起きたのかと目を丸くしたが、やがてその歌詞の意味を咀嚼するように、ゆっくりと視線を落とした。
「……先生。それは、あまりに単純すぎませんか」
患者が小さく呟く。僕は手を止め、カルテから顔を上げた。
「単純だからこそ、誰もが逃げられない真実なんです」
僕はあえて、医師としての鎧を脱ぎ捨てて言葉を紡いだ。
「生きていれば嬉しいこともある。けれど、同じだけの重さで悲しみもある。多くの人間は、その悲しみを誰かのせいにしたり、制度の不備だと叫んだりして、何とか正当化しようとする。でも、この歌は言っている。ただ『生きている』という事実だけで、喜びも悲しみも等しくそこにあるんだと」
診察室の外では、ファイザー製ワクチンの是非を問うデモの騒音が、遠くでかすかに聞こえる。病院の掲示板には、後遺症補償を求める署名活動のチラシが貼られている。だが、僕が今、この患者に伝えたかったのは、そんな矮小な争いの外側にある「命の等価性」だった。
「難病も、障害も、健康な体も、この歌のなかでは皆同じ列に並んでいる。悲しみがあるのは、あなたが不幸だからじゃない。あなたが、しっかりと『生きている』という証拠なんです」
患者はしばらく黙っていた。やがて、点滴の針が刺さったままの腕で、ふっと息を吐き出した。その表情からは、先ほどまでの「自分だけが被害者だ」という硬い鎧が、わずかに剥がれ落ちていた。
「……悲しんでも、いいんですね」
「ええ。悲しみもまた、生きているという喜びと同じくらい、あなただけの尊い財産だ」
僕はカルテに万年筆を走らせた。そこには、病名や薬の分量といった無機質な記録ではなく、今日この瞬間に僕たちが共有した、小さな祈りのようなものが刻まれている。
病院の地下では、あの点滴の雫が今日も静かに落ちている。それは、あかりが消えた夜からずっと、僕に問いかけ続けているのだ。「お前は、この単純な事実を胸に刻んで生きているのか」と。
歌い終わった診察室の空気は、少しだけ軽くなっていた。僕らは皆、誰かのせいにしていないと潰れてしまいそうなほど弱い。けれど、その弱さを認めたとき、初めて僕らは「生きている」というただ一つの事実に帰還できるのかもしれない。