パンデミック.新形コロナウイルス

役人が去ったあとの会議室は、まるで深海のように重く、静まり返っていた。同僚たちの顔には、安堵ではなく、これから始まるさらなる混乱への諦念が張り付いている。
私は窓の外を眺めながら、湧き上がる言葉を抑えられなかった。
「かつての日本人は、もっと静かに、他者を慮(おもんばか)る精神を持っていたはずだ。だが今はどうだ。少し体調が悪いだけで、ワクチンのせいにし、救済という名の補償を求め、あまつさえ宗教団体の旗のもとに群がって正義を振りかざす。自分たちの不運をすべて国家や製薬会社のせいにして、誰もが被害者面をしたがっている」
かつては国が供給した恩恵に対し、謙虚に感謝する社会があった。しかし今は、無料(タダ)で提供されたものにすら、瑕疵を探して糾弾する。ファイザー製のワクチンを国が買い付け、国民に差し出した。その功績や努力に目を向ける者は少なく、ただ「毒を盛られた」と叫ぶ声だけが大きく共鳴している。
「国という組織が用意した盾を自ら受け取っておきながら、壊れたら金を払えと騒ぐ。日本人はいつから、こんなにも汚く、自分勝手な生き物になってしまったんだ」
私の呟きは、誰に届くでもなく、会議室のテーブルを滑った。
「あかりが生きていた頃は、こんな世の中じゃなかった。誰もが運命に抗うとき、自分の中にある静かな強さを信じていた。今は違う。自分の弱さを他人のせいにして、社会の混乱を肥やしにするカルトじみた団体が、顔を赤くして大声を上げている」
同僚の医師の一人が、バツが悪そうに視線を逸らした。彼もまた、患者の顔色を窺い、面倒事を避けるために点滴の量を調整するような、そんな薄汚い妥協の中に生きているのだ。
病院の地下に眠る、点滴混入事件の記憶。あの事件を引き起こした憎悪と、今の世の中に蔓延する自分勝手な被害者意識は、どこか繋がっている気がしてならない。
あかり。
君が消えたあとのこの国は、かつての温もりを失い、冷たい分断の荒野へと変わってしまった。人々は「美」や「正義」を盾に、他者を傷つけることにさえ快感を覚えている。
私は拳を握りしめた。この病院で起きている議論も、結局はそんな汚い人間たちの、醜い足の引っ張り合いに過ぎない。ワクチンを売った側も、打たれた側も、文句を言う者も、救済を叫ぶ者も――皆、同じ穴の狢(むじな)のように見えた。
この国が失ってしまった「思いやり」という言葉の残骸が、会議室の床に、埃のように積もっていた。