パンデミック.新形コロナウイルス

あかりの瞳から溢れる涙は、止まることを知らなかった。正夫の放った冷酷な言葉が、彼女の無垢な心を鋭く切り裂いていく。
「どうして、そんなこと言うの」
あかりは泣きながら、正夫の胸元を掴んだ。
「あの人は、私の担当だよ。私が吐いた時だって、ちゃんと処理してくれた。何も言わずに、一番に駆けつけてくれたの」
正夫はため息をつき、あかりの肩に手を置いた。その瞳には、あかりに対する同情と、僕に向けた決定的な拒絶が宿っていた。
「あかり、君にはまだ難しいかもしれない。彼がやったのは看護じゃない。そんな生易しいものじゃないんだ。彼が君に対して抱いている感情は……いや、君には分からない方がいい」
正夫の言葉に、あかりの嗚咽が止まる。僕はその静寂に耐えきれず、力なく口を開いた。
「いいんだ、あかり。正夫に言われるのは無理もない。俺が悪かったんだ。お前を……好きになってしまったから」
僕の告白は、あまりに不器用で、そして残酷な自己防衛だった。まだ幼いあかりには、その言葉の重さも、それがなぜ「悪」とされるのかも理解できない。彼女はきょとんとした表情で、純粋な問いを投げかけた。
「どうして、それが悪いの? 好きになってくれるのは、いいことじゃないの?」
その問いの純粋さが、僕の胸を焼き尽くす。僕は、仕事上の禁忌など最初から理解していた。だが、理性を殺し、本能に身を委ねたのは僕自身だ。それなのに心の中では「あかりが吐かなければ」と彼女を責め、その一方で、彼女を誰よりも優しく抱きしめたいと願う。この矛盾した獣のような感情を、あかりは知る由もない。
僕は震える手で、あかりの顔に触れた。彼女のマスクには、先ほど吐き出した胃液が薄く付着し、汚れている。
「マスクが汚れてしまったね」
そう優しく囁き、僕は彼女の顔からそのマスクをそっと取り外した。そして、その汚れた布を、まるで宝石でも扱うかのように、自分の顔へと重ねた。彼女の吐息と、胃液の酸っぱい匂い。それが僕の顔を覆った瞬間、世界からあらゆる倫理が消え失せた。
コンビニの店員たちは、その異様な光景を見ていた。彼らは軽蔑するでもなく、ただ薄ら笑いを浮かべて囁き合う。
「あいつら、もう終わってるな」
「医療従事者としては失格だけど、ああなっちゃったらもう薬も効かないよ」
彼らの視線は、街角で千円のマスクを売り買いする男女を見つめる目と何ら変わらない。僕が今していることは、あのマスクの少女の元へ通う男たちと同じ、救いようのない欲望の儀式だ。
地下室という閉鎖された聖域で、僕たちは狂気の中で愛を育んでいる。あかりは無邪気に微笑み、僕はその笑顔の裏で、彼女の苦痛を自分のものにすることに酔いしれる。
正夫は立ち去った。彼には理解できないのだ。地上の清潔な正論など、この地下の闇には何の役にも立たない。僕はあかりの汚れたマスクをつけたまま、地下二階の闇の奥へと彼女を抱き寄せる。
もう、地上へ戻る理由などどこにもない。僕はあかりのせいにして、彼女を愛し続ける。この地獄の底で、二人だけの歪んだ日常を紡ぎながら。