パンデミック.新形コロナウイルス

あの日、コンビニエンスストアの床で、僕の理性は死んだ。
もしもあの時、あかりが吐きさえしなければ。もしも僕が、あの酸っぱい汚物を靴底で踏みしめさえしなければ。僕は今も、白衣を纏い、患者との間に正しい距離を保つ「誠実な医療従事者」として、清潔な日常の中にいられたはずだ。
だが、僕はその愚かさをすべて棚に上げ、あかりを呪った。なぜあんな場所で吐いたのか。なぜ僕を、こんなにも深く狂わせたのか。自分自身の醜い執着を、あたかも彼女が引き起こした災厄であるかのようにすり替える。僕は、それほどまでに弱く、卑怯な人間だった。
理学療法士の正夫は、僕の顔を冷ややかな瞳で見下ろし、「お前はもう、医療従事者としては終わっている」と吐き捨てた。言い返す言葉など、あるはずもなかった。彼が正論で僕を刺せば刺すほど、僕は自分の奥底にある醜い欲望が、冷酷なまでに暴かれているのを感じた。
彼ら、地上の住人は清潔だ。彼らは「スペック」という名の綺麗な指標で武装し、決して一線を超えない。だからこそ、僕は彼らの前では呼吸すらできない。
僕は、逃げた。
地上の光から、正夫の正論から、そして自分自身の「愚かさ」という直視できない現実から。
今、僕が居るのは地下だ。
ここは誰の視線も届かない、湿ったコンクリートの底。ここなら、誰も僕を責めはしない。正夫も、世間も、僕が何をしたかなど知る由もない。
あかりのせいにして、地下に潜り込み、暗闇を飼い慣らす。鏡に映る自分の顔を見るたびに、悍(おぞ)ましいまでの嫌悪が込み上げる。だが、その嫌悪さえも、あかりの記憶を反芻するための儀式のように感じてしまう自分が、一番の異常者なのだと理解している。
地上の人びとは、今日もコーヒーを飲み、スペックを語り合い、汚れたものを地下へと突き落とす。僕もまた、その地下に住む「汚れたもの」の一人だ。
暗闇の中で、僕はあかりの名前を呼ぶ。
「僕をこんなにしたのは、君のせいだ」
そう自分に言い聞かせなければ、正気を保てない。地下の遊園地では、今日も子供たちが笑っている。その無垢な笑い声が、僕の罪を、さらに深く、暗く塗りつぶしていく。
地下三階の遊園地。そこは、地上が切り捨てた「人間性」の掃き溜めであり、僕たちが唯一呼吸を許された地獄だ。僕はもう二度と、あの上へは戻らない。戻る資格も、戻る理由もないのだから。