あかりのことは、随分と前から知っていた。子供の頃、病院という無機質な箱庭の中で彼女を見かけて以来、ずっと僕の中で彼女という存在は特別な輝きを放っていた。
彼女がこの地下二階の病棟に収容されたとき、僕は迷いなく担当に志願した。
当初の彼女は、放射線と抗がん剤という名の暴力に抗うのに精一杯だった。クリーンルームの殺風景な部屋で、彼女は何度も吐き戻した。その苦悶する声、胃液の混ざった独特の匂い、そして剥き出しの苦痛。それら全てを、僕は医療従事者としての理性ではなく、もっと別の、歪んだ愛情で受け止めていた。
やがて彼女は、治療を拒絶した。僕は心の底から安堵した。もうこれ以上、彼女が苦しむ姿を見なくて済む。そうすれば、彼女はただの「患者」として、僕の手の届かない境界線の向こう側にいてくれる――そう自分に言い聞かせたかった。
だが、運命はあまりに残酷で、そして甘美だった。
「プリンが食べたい」
あかりの何気ない呟きを、僕は拒めなかった。僕は彼女を連れ、地下のコンビニへと向かった。朝食をしっかりと摂ったはずの彼女が、レジで会計を済ませる直前、唐突に顔色を失った。
次の瞬間、あかりは床に蹲り、胃の中身を吐き散らした。
周囲の店員は慣れた手つきで、床の汚れを処理しながら彼女を労った。その光景はあまりに日常的で、異様だった。僕の視線は、あかりが床にぶちまけたその汚物へと釘付けになった。
僕は、あえてその汚れを靴の先で踏みしめた。
靴底に伝わる生温かい感触、酸っぱい匂い。それは彼女の肉体の一部を、僕の領域へと強制的に招き入れるための、密かな儀式だった。その感触を得た瞬間、僕の中で何かが決定的に壊れた。
その日を境に、僕は帰宅することをやめた。
病棟が静まり返り、他の子供たちが深い眠りにつく頃、僕はあかりの病室へ忍び込んだ。暗闇の中で彼女の鼓動を聞き、その小さな体温を肌で感じた。
誰にも見られない、地下室の闇。そこだけが、僕たち二人だけの世界だった。
地上の人間たちが「感染リスク」という薄っぺらな理屈で互いを遠ざけ、スペックという名のラベルで人間を値踏みしている間に、僕は地下で、彼女という存在そのものを貪り尽くそうとしていた。
あかりの吐瀉物を踏んだあの感触を、僕は今も靴底に感じている。それは僕が、地上の清潔な嘘を捨て、地下という名の真実へ堕ちていくための、決して引き返せない一歩だったのだ。
彼女がこの地下二階の病棟に収容されたとき、僕は迷いなく担当に志願した。
当初の彼女は、放射線と抗がん剤という名の暴力に抗うのに精一杯だった。クリーンルームの殺風景な部屋で、彼女は何度も吐き戻した。その苦悶する声、胃液の混ざった独特の匂い、そして剥き出しの苦痛。それら全てを、僕は医療従事者としての理性ではなく、もっと別の、歪んだ愛情で受け止めていた。
やがて彼女は、治療を拒絶した。僕は心の底から安堵した。もうこれ以上、彼女が苦しむ姿を見なくて済む。そうすれば、彼女はただの「患者」として、僕の手の届かない境界線の向こう側にいてくれる――そう自分に言い聞かせたかった。
だが、運命はあまりに残酷で、そして甘美だった。
「プリンが食べたい」
あかりの何気ない呟きを、僕は拒めなかった。僕は彼女を連れ、地下のコンビニへと向かった。朝食をしっかりと摂ったはずの彼女が、レジで会計を済ませる直前、唐突に顔色を失った。
次の瞬間、あかりは床に蹲り、胃の中身を吐き散らした。
周囲の店員は慣れた手つきで、床の汚れを処理しながら彼女を労った。その光景はあまりに日常的で、異様だった。僕の視線は、あかりが床にぶちまけたその汚物へと釘付けになった。
僕は、あえてその汚れを靴の先で踏みしめた。
靴底に伝わる生温かい感触、酸っぱい匂い。それは彼女の肉体の一部を、僕の領域へと強制的に招き入れるための、密かな儀式だった。その感触を得た瞬間、僕の中で何かが決定的に壊れた。
その日を境に、僕は帰宅することをやめた。
病棟が静まり返り、他の子供たちが深い眠りにつく頃、僕はあかりの病室へ忍び込んだ。暗闇の中で彼女の鼓動を聞き、その小さな体温を肌で感じた。
誰にも見られない、地下室の闇。そこだけが、僕たち二人だけの世界だった。
地上の人間たちが「感染リスク」という薄っぺらな理屈で互いを遠ざけ、スペックという名のラベルで人間を値踏みしている間に、僕は地下で、彼女という存在そのものを貪り尽くそうとしていた。
あかりの吐瀉物を踏んだあの感触を、僕は今も靴底に感じている。それは僕が、地上の清潔な嘘を捨て、地下という名の真実へ堕ちていくための、決して引き返せない一歩だったのだ。
