「……カイザァ?」
 ベッドの中が冷たいことに気がついて、フィオーネは目を覚ました。やわらかくてあたたかな、幸せの塊のようなものを抱いて眠っていたはずなのに。お腹が空いて先にベッドを抜け出すことはあっても、鳴くか、フィオーネの身体を前足で繰り返し踏みつけるのだ。
 そんなこともなく、部屋の中は静かだ。
 そのことに嫌な予感がして、フィオーネは跳ね起きた。
「カイザァ、どこにいるの?」
 部屋の中を見回してみた。畳んだ毛布を敷いてある本棚の空きスペースにも、机の下にも、どこにもない。急いで医務室のほうへ行ってみたけれど、何の気配もない。
 しかも、窓が開いている。草いきれを含んだ風がふっと吹き込んできて、フィオーネの汗で張りついた髪を揺らした。それなのに、またフィオーネは汗をかいた。じんわりと、冷たい汗を。
「カイザァ?」
 窓の外で枝葉の揺れる音がして、急いでフィオーネは窓枠に駆け寄った。でも、直後に近づいてきた気配は、あきらかに猫よりも大きなものだった。
「……ダリウス」
 シュタッと軽やかに木から降りてきたのは、ダリウスだった。まさかフィオーネが窓のそばにいるとは思ってなかったらしいダリウスは嬉しそうにしたけれど、すぐに申し訳なさそうな顔になった。
「ごめん。何か、がっかりさせちゃったみたいで。話したいことがあって朝すぐに会いたくて来たんだけど……どうかした?」
 ゴニョゴニョと言い訳みたいにしていたダリウスは、フィオーネの様子がおかしいことに気がついた。今のフィオーネは顔色も悪く、気もそぞろといった雰囲気だ。それに、寝間着のまま医務室のほうに来ているのも妙だと思った。
「ダリウス、どうしよう……朝起きたら、カイザァがいなくなってたの。昨日、勝手に裏山まで行ってたみたいで、危ないからもうそんなことしちゃだめよって言ったのに……」
「フィオ、落ち着いて。カイザァがいないんだね? それなら、一緒に探すから、まずは着替えておいで。いいね?」
「……うん」
 気持ちの乱れを感じ取り、ダリウスはひとまず落ち着かせようとフィオーネの頭を撫でた。そうされたことで自身がおかしくなっていたのだと自覚したフィオーネは、深呼吸しながら居室に戻った。
 寝間着からブラウスとスカートに着替え、ローブをまとい、髪をいつものように編み込んで結い上げる頃には、動転していた気持ちもいくらか落ち着いていた。
「カイザァはやっぱり裏山にいたよ。……大まかな場所だけでも特定したくて能力を使ったんだ。ごめん」
 医務室に戻ると、ダリウスがビー玉を片手に待っていた。
「ううん。いいの。ありがとう」
 そういえば彼に、能力を使って居場所を特定するのはやめてとお願いしていたのだ。そのことを思い出して、フィオーネはあわてて首を振った。
「流れ星だっけ。フィオのほうきを貸してくれる? ひとっ飛びで探してくるから。それと、カイザァのお気に入りのおもちゃなんかも。なるべく音が鳴るものがいいな」
「待って! 私も行く」
 てきぱきと指示を飛ばすダリウスに、フィオーネは詰め寄った。でも、ダリウスはうなずかない。
「だめ。あんな危ないところにフィオを行かせられないよ」
「それなら、ダリウスだって行かせられないよ!」
「フィオ……」
 たしなめようとしたのに嬉しいことを言われて、思わずダリウスの頬は緩んだ。でも、そんな場合ではないとすぐに表情を引き締める。
「わかった。じゃあ、俺のローブ着て。生徒用のローブは瘴気除けが施されてるから。ほうきには二人乗りしよう」
「うん」
 ダリウスに頭からローブをかぶせてもらうと、フィオーネは自分のほうきを呼んだ。
 もともとひとり乗りの華奢なほうきだ。ダリウスがまたがり、フィオーネがその後ろに横乗りになると苦しそうに震えたけれど、ダリウスが呪文を唱えると何とか浮き上がった。
「俺が魔力を供給しながら行くから、裏山でも飛んでられると思う。でも、もしまずいと思ったら、フィオひとりで逃げるんだよ」
 窓から飛んで出て、中庭を突っ切っている最中、ダリウスはそんなことを言った。本当は、危険な裏山には自分だけで行きたいと思っているのがわかるから、フィオーネは何も言わず、ダリウスにしがみつく腕に力を込めた。
 ウーストリベ魔術学院では、飛行訓練はやっていない。それなのにダリウスは、スイスイと木々の間をぬって飛んでいる。相当に筋がいいのと言えるだろう。
「たぶんね、流れ星はダリウスのことが好きなんだと思う。私が乗ったときより、よく言うことを聞いてるもの」
「それは、すごく嬉しいな」
 それは、とても打ち解けた会話だった。ここ最近、フィオーネが間違った意識で引いていた一線が、完全になくなっている。そのことにダリウスはこっそり微笑んだけれど、何も言わなかった。
 裏山が近づいてきたのだ。
「今からビー玉を覗いて細かな位置まで探るから、片手飛行になる。しっかりつかまってて」
 そう言うと、ほうきは一旦グンと上空まで行った。裏山の中を突っ切りながら探索するよりも、上空で大体の位置を捕捉してから突入したほうがいいと思ったのだろう。
 宣言通り、ダリウスが片手を離すとほうきは震えた。でも、ダリウスから魔力をもらっているからか、この前のように目を回して落下したりはしない。
 ダリウスの腰から柄に持ち替えて、フィオーネは怯えるほうきをなだめるように撫でた。そして、集中しているダリウスの背中を見守った。
 彼の背中はピンと張りつめて、ひどく緊張しているのがわかる。それを見てフィオーネは、ダリウスの能力が決してお手軽なものではないと知った。
(こんなに集中して、いつも大変な思いをして私の居場所を探してたんだ……)
 そんなふうに、まっすぐに思いを向けられていることがわかって、フィオーネは胸がキュッと苦しくなった。思いを一方的に向けられていたときは、少し怖いとすら感じていたのに。
「……わかったよ、場所。今から突入するからね」
 言うや否や、ダリウスはほうきを傾け、裏山の森の中へ下降していった。なるべく枝がフィオーネにぶつからないよう、微調整をして飛びながら。
 カイザァに近づいているのなら早く見つけてあげたいと、フィオーネは呼びながら鈴の入ったおもちゃを鳴らした。子猫のときから育てて六年。いくらか落ち着きは出てきたけれど、未だにこのおもちゃでは夢中になって遊ぶのだ。夢中になりすぎて、部屋の中をめちゃくちゃにしれしまうこともあるけれど。
 今はそれすらも恋しくて、早く帰ってきて欲しいと、フィオーネは祈るように鈴を鳴らし続けた。
「今、かすかに声が聞こえた。子猫みたいに甲高い声だったけど」
「すごく心細いときの声よ……!」
 ダリウスに言われ、フィオーネも耳をすませた。すると、か細い鳴き声が聞こえた。高いところに登って下りられなくなったときなどに出す声だ。
「いた! あそこよ!」
 声を聞いたのはダリウスが先だったけれど、姿を見つけたのはフィオーネが早かった。目を見開き、耳を伏せて怯えきっているカイザァを指差す。
 カイザァは、毒沼のほとりで動けなくなっていた。どす黒い、臭気と瘴気を放つ、危険な毒沼のそばで。
 フィオーネは以前、グリシャたち四バカたちの誰かが沼に足を取られてブーツがとけていたのを思い出した。人間は靴や服で皮膚をおおわれているからまだいい。でも、猫であるカイザァは沼に少し触れるだけでも大変なことになってしまう。そう考え、焦ったフィオーネはダリウスがほうきの高度をかなり下げたところで飛び降りた。
 沼から少し離れたところに落ちたフィオーネは、驚かせてはならないと足音を忍ばせ、声もかけずに駆け寄った。そして、背後からそっと抱きかかえた。
「……カイザァ」
 しっかりと抱きしめ、甘えるような鳴き声を聞いてやっと、フィオーネはホッと息をつくことができた。
 あとは、ダリウスのところに戻って、ほうきに乗って校舎に戻るだけ。そう思っていたのに――。
「あぶない!」
 そんなダリウスの叫びを聞いた直後、フィオーネの身体は弾き飛ばされた。ダリウスに体当たりされたのだ。
「何かいる!」
 ダリウスはそう叫んでフィオーネたちに促し、真上に向けた杖から数回、光を放った。
「え……⁉」
 その光に気を取られ、フィオーネの視線が一瞬空に向いているうちに、沼からとんでもないものが姿を現そうとしていた。
 それは、ぬめった岩に見えた。ぬらぬらとした巨岩が、毒沼から浮かんできているように。
 でも、しばらく見ていると、それが岩ではなく生き物なのだとわかる。
 トカゲだ。体表を気持ちの悪いイボでおおわれた、巨大なトカゲ。
「ひっ……」
 その禍々しいトカゲと目が合うと、フィオーネは身がすくんだ。カイザァが動けなくなっていた理由がよくわかる。怖くて、恐ろしくて、気持ちが悪くて、頭がおかしくなってしまいそうになるのだ。
 そんなふうに動けなくなっているフィオーネとカイザァに向けて、トカゲがその顎(あぎと)を大きく開こうとしていた。
(このままじゃ、食べられちゃう……!)
 そう頭ではわかっているのに、フィオーネの身体は動かない。
「フィオ、逃げて!」
 大トカゲの舌が伸びてきて、それにフィオーネたちは絡めとられるかに見えた。
 しかし、飛んできた|流れ星(ほうき)がフィオーネたちを庇い、ダリウスが杖から火球を放った。
 舌先にもろに火球が当たったトカゲは、痛みを訴えるように咆哮をあげた。
 それは空気を、木々を、その場にいる生き物の脳を揺さぶった。
 耳をつんざくようなその声に、フィオーネは冷や汗をダラダラ流し、過呼吸を起こしそうになっている。でも、何とか踏みとどまり、ほうきをつかんだ。
「ダリウス……! ダリウスも、逃げよう!」
「だめだ! 俺が時間を稼ぐから、今のうちに逃げて!」
 そんなやりとりをしているうちに、トカゲは態勢を立て直した。体を起こし、沼から出ようとしている。唸りながら、重量感のある尻尾をふるう。
 フィオーネはカイザァを抱えて逃げるけれど、足がもつれて速度が出ない。
「ハッ!」
 尻尾がフィオーネにぶつかる直前、ダリウスが放った風の刃がそれを叩き切った。トカゲの体がよろめいた隙に、ダリウスはさらに攻撃を撃ち込んでいく。
 風の魔術で地面の小石を巻き上げ、それを礫にして降らせる。硬いイボでおおわれた皮膚がびくともしないとわかると、次は水の魔術の応用で、凍らせようとした。一瞬は動きを止めたけれど、ぬめった体は凍りにくいらしく、すぐにまた暴れだす。
 最初に放った火球が一番効果があると気づいたダリウスは、次々と火球を作り、それを風の魔術で高速で撃ち出す。
 何度も何度も繰り返し火球に撃たれ、トカゲは弱っているかに見えた。咆哮はあげるものの、それも徐々に小さくなりつつある。
 めまいと頭痛がひどく、今にも倒れそうになっているけれど、これならダリウスを連れて逃げられるのではないのかとフィオーネは考えた。
 呼吸を整え、ほうきにまたがる。カイザァを懐に隠し、小声でほうきに浮くよう指示を出す。
(飛んで、ダリウスをつかまえて、そこから一気に上に飛び上がれば……)
 そう考え、フィオーネは片手を伸ばし、ダリウスに向って飛び出した。
 そのとき――。
 トカゲが痛みに大きく体をよじった。それと同時に、口から何かを勢いよく吐き出す。血か、体液か。どす黒い液体が放たれ、それがダリウスの身体にぶつかった。
「うわっ……」
 まるで小石のように、ダリウスの身体が宙に浮かび上がる。そこに、憎悪をまき散らすトカゲが、腕を振り下ろそうとした。爪が、あとわずかでダリウスの身体に届く。鋭く、凶悪な爪が。
「ダリウスー!」
 目も前の光景を、実際よりも何倍も遅く感じて見ながら、フィオーネは叫んでいた。方向転換をはかろうにも、間に合わない。そう思ったけれど……
目からビーム四重奏竜巻ー(アイビームカルテットルネード)!」
 間抜けな掛け声が響き、太い光線がトカゲの横腹にぶつかった。
 疾風が、落下中のダリウスの身体を受け止め、離れた場所に運ぶ。
「とっとと失せろ、ブサイク!」
 物騒な声をあげて、瞬間移動のように現れた少女が、トカゲの体に拳や蹴りを食らわせていく。
「……グリシャたちと、エミール? それから、ベルギウス先生……?」
「遅くなってすまなかった」
 ダリウスを抱え、ベルギウスはフィオーネのそばに駆け寄ってくる。ダリウスを宙で受け止めた疾風は、ベルギウスだったのだ。
「もう心配はいらない。ギュンターはああ見えて、肉体強化の魔術が得意だからな」
 ベルギウスがそう説明している間にも、エミールは目にもとまらぬ速さで攻撃を撃ち込んでいる。イボがもげ、皮膚の下がむき出しになり。そこにさらに拳がねじ入れられると、トカゲの体は沼の中に沈み込んだ。だめ押しとばかりにその体を足場にし、飛び上がる反動でドプンと完全に沈めてしまった。
「あー早くお風呂に入りたーい。ありえないくらい臭くて、最低な気分なんだけど」
 軽やかに地面に降り立ったエミールは、ローブで顔を拭いながら、吐きそうな表情をした。
「……どうして?」
 四バカたちとエミールとベルギウスの顔を見て、ホッとしてフィオーネはそう疑問を口にした。
 ダリウスとふたりだけではこの窮地を脱することはできないと、あの瞬間あきらめかけたのに。そんなときに、どうしてタイミングよく来てくれたのだろうかと。
「救難信号を見たんだ。ノイバートが飛ばしたんだな」
「ダリウス……」
「ひとまず、帰ろう。彼の手当ても必要だしな」
 べルギウスに促され、フィオーネは歩きだした。ダリウスの顔を見たら様々な感情が溢れ出すけれど、何ひとつ言葉にならなかったから。
 今はただ、ダリウスに早く目覚めてほしいと願うだけだ。