螺旋城(ゼルシェイ)が暴れ狂う、少し前。

 シュンは弱り果てていた。

 クナドの力によって奇妙な扉に吸い込まれ、どこか遠くへ飛ばされてからというもの、ずっと同じ場所をたった一人でグルグルと歩いていたのである。

 岩時神社へ戻りたいのだが、どの方角へ向かえばいいのかわからない。

 強い日差しにあたって汗をかいたり、逆に雨にあたって体が冷えたりしながら、シュンは何とか生きていた。

 疲労が限界を突破した上、腹が減ったせいで足取りもおぼつかず、余力は残りわずかしか無い。

 空間を把握する術など持ち合わせてはいないし、すれ違う生き物たちはどことなく胡散臭くて、信用ならない。

 シュンは得体の知れない商品を売り買いしている市場が立ち並ぶ、見知らぬ街をただやみくもに、歩いていた。

 はるか遠方には高台が見え、蜘蛛に似通った巨大な城が建っている。

 存在感だけが強烈なその城は、実に気味悪い様子でグネグネと蠢き、時折おかしな唸り声をあげている。

 城の様子など誰一人として気にしない様子で、活気があるその街では肉や野菜、果物などの市場が立ち並び、祭りのように威勢のいいかけ声で商品が売り買いされていた。

 街を歩く者達は皆、得体が知れない生き物のようにシュンの目には映る。

 自分も『狛犬』という特殊な霊獣であるため、決して他者を悪く思うつもりは無いのだが、どうも様々な生き物が合体しているような、見覚えの無い者たちで溢れているのだ。

 虎の頭を持つ蛸だったり。

 鷹の体を持つ鳩だったり。

 彼らに共通して言えることは、どの生き物たちも自分を少しでも見栄え良く飾ろうとしている、ということだ。

「…………あの」

 買い物の途中であるような、少し恰幅のいいご婦人に話しかけてみると、彼女はシュンに驚いた表情を見せた。

 見知らぬ者に話しかけられることに、慣れていないのかも知れない。

「…………何でしょうか」

 彼女は猫の顔をした草履虫である。

「ここはどこでしょう」

螺旋城(ゼルシェイ)の城下町ですわ」

「ゼルシェイ?」

 シュンは螺旋城の名を聞いたことが無かった。

「あの城は…………螺旋城という名なのですか?」

「ええ。どちらからいらしたの?」

「人間の世界です」

「まぁ、人間の!」

 ご婦人はサッと青ざめ、緊張した様子で、そそくさと立ち去って行った。

「…………?」

「兄さん、買ってくかい?」

 果物屋の男に声をかけられたが、シュンは残念そうに首を横に振る。

「持ち合わせが無いので」

 本当は腹ペコなので、何か食べ物を口にしたい。

 露店で売っている奇妙なモノの中でシュンが信用できそうなのは、みずみずしくて美味そうな果物や野菜だけである。

「その懐に入っている武器を売ってはどうですか。私なら高い値で買いますよ」

 急に後ろから声をかけられ、シュンは驚いてそちらへと振り向いた。

 声の主である背の高い青年が、彼をじっと見つめている。

 銀と黒が混ざり合う、少し硬めの髪を小さく後ろで一つに束ね、身なりのいい黒コートとグレーのスーツを着こなしている。

 この街にいる者たちの中で、この男だけが全く自分を偽っておらず(・・・・・・・・・)、そのためか彼だけが少し浮いて見えた。

「…………この飛刀をお売りすることは、出来ません」

「どうして?」

「扱いが難しいので、ある程度訓練をしなければ使いこなせないのです」

「そうですか………とても残念です」

「どこかに、飛刀の使い手でもいるのですか?」

 シュンに聞かれ、スーツの男は城を指さした。

「あの城に住む王女様です。あらゆる武器を使いこなせるお方です」

「あらゆる武器を?」

 城の王女様が武器を使いこなす所など想像出来ないし、にわかには信じがたい。

「はい。マユラン様は器用なお方でございますから。私はあの城に仕えるものです」

 マユラン? それが王女の名か。

 それにしてもどうして、青年はシュンの懐の中に飛刀が仕込まれていることに、気づいたのだろう。

 もしかするとこの男の正体は狼なのかも知れない、と咄嗟にシュンは思った。

 狼は狛犬以上に見えないものを察知できる、鋭い嗅覚の持ち主である。

 そしてどうやら彼は、知識や経験がとても豊富であるように見える。

 シュンが持つ飛刀がどのような力を発揮するものなのか、彼は見抜いているのかも知れない。

 岩時神社の狛犬にだけ授けられたこの飛刀は、いわばシュンの魂に等しいほど大切なものである。

 どこへ飛ばしても、どんな運命をたどっても、必ず彼の元へと帰って来る武器。

 岩時神社に所縁のある、白と黒のドラゴンが刻印された、希少な飛刀だ。

 この武器が廻った歴史は大変古く、カナメはおろか大地の父である久遠ですら知りえない事実が、数多く秘められている。

 見た事の無い顔立ちをしているが、この青年はどこかの神に仕える霊獣なのだろうか。

 だとすれば霊獣王である獅子カナメは、青年がどういう者なのかくらいは、知っているのかもしれない。


 グゥ~…………


 腹ぺこであったため、シュンのお腹から音が鳴った。

 青年は微笑みを浮かべ、親しみのこもった声でシュンに声をかけた。

「もしかすると、お腹が減っているのですか?」

 穴があったら入りたい。

 シュンは顔を赤くしながら小さく頷いた。

「…………はい」

 空腹に関しては別に、包み隠さず話したっていいだろう。

「ここ数日、何も食べてないので」

「…………それはお辛いですね。行くあては?」

 シュンは首を横に振った。

 思いがけずこの街に迷い込んでしまい、どうやって帰れば良いかわからなくなってしまった事、早く帰らなければならない事を、彼は青年に説明した。

 それを聞くと青年は申し訳なさそうに、思わず笑ってしまった事をシュンに詫びると、急に何かを思いついたかのように目を輝かせ、楽しそうな様子でこう提案した。

「それでは、私と一緒に城の中で働きませんか? 最近、また召使が辞めてしまい、とても困っていたのです。屋根つきの場所で働けて、美味しい食事もありますよ」

 シュンは希望の光が差し込んだような気がして、パッと彼の顔を見た。

「本当ですか?」

 こんな渡りに船の、うまい話があるのだろうか?

「私の話が信用できませんか?」

 信用できると答えれば、完全なる嘘になってしまう。

「実のところ、どうすればいいかわからなくて困っているので、信じたいのですが」

「そうですか」

 素直でよろしい、とでも言いたげに、青年は再び微笑んだ。

「この街は全て、螺旋城を中心に回っています。もし情報を仕入れたいならまず、螺旋城を詳しく知ることをお勧めします」

 なるほど。
 シュンは頷いた。

 確かに、そう見える。

 あの醜い螺旋城は、この街の雰囲気にどこか通じるものがあり、ある意味この地の象徴ともいえる存在なのかも知れない、と感じる。

 あの城に潜入出来れば、岩時神社へ帰るための糸口くらいは掴めるかも知れない。

 この男にただ、騙されているだけのような気もするが。

 そうこうしている間にも、どんどん体と心が衰弱していきそうな気がする。

 正直なところ、あらゆる武器の使い手だという、飛刀使いの王女様にも興味がある。

 とにかく生きて元の場所へ戻るためには、どこかで食事をとって休みつつ、情報収集しながら様子を探る他はない。

「私の名はジンと言います。もしご承知いただけるようでしたら、城までご案内いたしますよ」

 シュンは思案した。

 ジンと名乗るこの青年に、決して心を許してはならないし、彼に対する警戒心を弱めるわけにはいかない。

 黒龍側の神が岩時神社に侵入したため、現在も非常事態が続いており、人々を救うためには一刻を争う。

 だからといって、焦っては良い事が何もない。

 一度の油断が命取りになる。

 元の場所に戻るためには、一度あの城の中へ入り込むべきなのかも知れない。


 シュンはついに、頷いた。