最強神・深名(ミナ)は、不可解な衝動によって目を覚ました。

 ────ガバッ!

 体中が汗でびっしょりになり、天蓋付きのベッドから、跳ねたように体を起こす。

 喉の奥がゼイゼイと鳴っており、息が苦しくてたまらない。

 これが最強神の正体だ。

 自分の心も体も、まともにコントロール出来ない。

 彼の意識は『ある場所』へと急激に、吸い込まれてゆく。

「目が覚めましたか? 深名様」

 久遠の声がする。

 淡い紫の布を開け、部屋の中をぐるっと見回した。

 椅子に座った久遠と爽が、驚いた様子で深名の方を見つめている。

「どうかされましたか?」

 いつもと変わらない光景?


 ────違う。


 あれは夢じゃなかった。

 現実だ。

 息を飲むほどの、美しい光景。

 絶対に、見逃したくない。

 急いで天枢(ドゥーベ)を唱えると、岩時神社の中が部屋いっぱいに映り込む。


「ここではない────もっと深く」


 久遠と爽は顔を見合わせた。

 深名の様子がおかしい。

 最近はやたらとふてぶてしく、不遜で、物事を冷めた目でしか見ようとしなかったのに。

 どうやら夢の中で何かを見つけたようで、深名は目が爛爛としている。

 映像がカチッと切り替わる。

 碧く澄んだ美しい海の中が、壁面いっぱいに映し出された。

 小さくてカラフルな魚が、サンゴ礁の中を呑気にたくさん泳いでいる。

「もっと深く」

 さらに深い場所へと、深名は天枢を潜りこませてゆく。

 深海の様子が映し出され、室内は暗闇に包まれた。

 突然、巨大な岩時城がぽっかりと姿を浮かび上がらせ、神秘的な表情を見せながら輝き出す。

「…………あれは」

 爽が目を丸くして、思わず声を漏らした。

「喋るな」

 深名に睨まれ、慌て二人は口をつぐんだ。

天枢(ドゥーべ)

 普段は力を言葉にしない深名が、声に出して詠唱するのは大変珍しい。

 それだけ今は、集中しているのだろう。

「見えた」

 生まれてこのかた、深名が目にしたことのない、異様な光景が映し出された。

 岩時城の天守閣に続く、血の回廊のさらに奥。

 二時の方角にある、扉ばかりが固まってできた扉工房が、目に飛び込む。

 暗闇の中で風塵が沸き起こり、様々な色や形の扉が粉々にされてゆく。

 爆風の中から緑色の瞳と桃色のたてがみを持つ、巨大なドラゴンが姿を現した。


「もしや…………あれは」


 頭上には黒い羽冠が光り輝き、首には銀色の勾玉でできた鎖が巻かれている。


「私の息子です」


 ため息交じりに久遠が答えた。


 桃色のドラゴンが頭を振り上げ、怒りに我を忘れた様子で、喉の奥からいくつもの、黒色の玉『黒玉衡(クスアリオト)』を生み出していく。

 その力は、黒くて無数の鋭い『憎しみの棘』がついた、玉の形へと変わってゆく。

「あの力は、何という名なのだ」

 深名は黒玉衡の美しさに、興味津々の様子である。

「私も初めて見ますが、……玉衡(アリオト)の『反転の力』なので、黒玉衡(クスアリオト)だと思われます」

「黒玉衡、か。あれはどうやったら作れるのだ? 久遠」

 初めて見た得体の知れない力は、深名の心を動かす原動力となったようである。

「さあ。白龍の私には、黒の力についてはわかりかねます…………」

 久遠は苦々しく、深名の問いに答えた。

「反転の力? 白龍と人間のハーフだから、白と黒の力を併せ持っているのか。お前の息子は本当に珍しいな、久遠。会ってみたくなった」

「…………はあ。恐れ入ります」

 まさか大地が、また深名の目に留まってしまうとは。

 あのバカ!

 次に会ったら、ぶん殴る。

 よりによって、とんでもなく厄介な力を手に入れたものだ。

 久遠は新たな悩みを抱え、ひどい頭痛が襲ってきた。

 黒玉衡がバチバチと巨大化し、九頭龍に向けて放たれる。

「あの九頭龍は一体、何者だ?」

「女の恨みによって作られた、土龍かと」

 深名の問いに、爽が答えた。

「九つの女蛇の頭が特徴的で、渇ききった魂と、渇ききった血を持て余し、海底でも満たされぬ土龍です」

「土龍……あれが生まれた原因は」

「女癖の悪い神があの場所に拠点を置いたため、女たちの怨念を根付かせたと考えるのが、妥当かと存じます」

「あれを蘇らせたのは誰だ?」

 爽には、ひとつの神の顔しか思い浮かばなかった。

 狂っているとしか思えない、女癖の悪さとその振る舞いの数々。

「恐らくは、道の神クナドかと」

 自分の妻と密通したことのある男。

「彼が人間世界のとある場所に、『扉工房』という名の部屋を作ったという噂を、聞いた事があります」

「道の神……」

 どうやら深名は、クナドを知っているようである。

 爽は深名の表情を見て、確信に近いものを感じた。

 岩時神社に侵入した五体の神のうちの一体が、クナドだという事を。


 ────ゴウンッ!!!


 ────ゴウンッ!!!


 ────ゴウンッ!!!

 
 桃色のドラゴンが放つ黒玉衡が九頭龍の体を突き破り、その部分が光り輝く。

「九頭龍の体が今、内側から光ったのは何故だ」

天璣(フェクダ)の力が、黒玉衡の中に込められているからのようです」

「そんな事が出来るのか?!」

 黒の力に、白の力を込める神などいない。

 これこそが前代未聞。

「…………私も、大変驚いています」

 目を疑いながら久遠は答えた。

 自分の息子にこんな力が備わっていたなんて。

「あっ!」

 爽が叫び声をあげた。

 もう一つの信じられない光景を、目の当たりにしたからである。

 自分の妻である姫毬が、3人の女と一緒に、血の回廊の隅に倒れている。

(マリ)!」

 血まみれになって死んでいる?
 救い出さなくては!

 爽は、姫毬の元へ今すぐに駆けつけたくなった。

 しかし、今は────

 深名が突然、ワクワクした様子でこう言い出した。

「興味が湧いた。人間の世界に直接行って、この目で黒玉衡を見てみたい」

 爽と久遠は心の中で、同時に深名を罵った。

『我儘も大概にしろ。バカ最強神!』

 しかし、その言葉を口にするわけにはいかない。

「誠に申し訳ございませんが、ご希望に副う事は出来かねます。深名様はいまだ謹慎中であります故、この部屋からの外出は固く禁じられております」

 久遠の言葉に、深名は口を尖らせた。

 爽も厳かな様子で話し出す。

「いずれにせよ、今は無理です。人間世界を修理している最中ですから」

 本当なら自分()が真っ先に、あの場所へ駆け付けたいというのに。

「修理が完全に終わるまで、こちらからは誰も訪れることが出来ません」

「そうか。では指をくわえたまま、あれをただ見ていろと言うのか」

「そうなりますね」

 引きつった笑顔で、爽は何とか深名に返答する。

『おしゃぶりでも口に銜えておけ』

 と言いたい気持ちをこらえながら。


 そうこうしているうちに、不思議な光景が目に飛び込んできた。


 砂と化した九頭龍の体が、どんどん、どんどん、大きくなっていく。


 九頭龍を作り上げていた赤黒い砂は、やがて色が抜けてゆく。


 冷たい風がサラサラと、それらを舞い上がらせている。


 粉々になった扉が、次第に風化していった。


 何もかもが渇ききって、真っ白い砂へと変わってゆく。


「…………?」


 暗闇が嘘のように消えてゆく。


 白い砂は一瞬だけ、桃色のドラゴンを包み込んだ。


 世界の色がだんだん明るく、まぶしく、変わってゆく。


 砂はみるみるうちに、真っ白な肌をした女性達の姿へと変化してゆく。


 天空から、光のシャワーが降り注いだ。


 サァー…………ッ────


 雨は渇いた土と砂を潤わせ、満たし、蘇らせてゆく。

 
 揺光(アルカイド)が作り出す、美しい慈愛の雨。
 

「あれは、岩時の霊水…………?」


 久遠は驚きの声を上げた。


 女性達は天から降り注ぐ霊水を、こくりこくりと飲んだ。


 彼女たちが大きく息を吸い込むと、今までの出来事が嘘のように、悲しみや憎しみ、そして怒りが消えてゆく。


 潤った土や砂は、緑を次々と生き返らせ、それらが森を生み出してゆく。


 根がぐんぐんと、上へ上へと飛び出し、花という花が勢い良く開き出す。


 渇いた喉は満たされ、潤ってゆく。


 心も満たされ、想いが溢れ、涙がとめどなく溢れてくる。



 ────何という幸せ。



 ずっとこの感覚を求めていた。



 我々は今、生きている。



 世界はこうして温かく、優しく、包み込んでくれている。



 今までどうして、見えなかったのだろう。



 聞こえなかったのだろう。



 感じることが、出来なかったのだろう。



 気づかなかったのだろう。



 この気持ちは一体────



「…………なんと美しいのだろう」



 深名はそれだけを声にした。


 黒玉衡などよりももっと、もっと、狂おしいくらいにあれが欲しい。


 あの力が、欲しい。


 最強神は完全に、揺光(アルカイド)の美しさに魅せられていた。