大地は今日で18歳。

 立派な成人だ。

 だが『大人』とは一体何なのだ? と久遠は思う。

 様々な葛藤と上手く向き合える者こそが、大人なのだろうか?

 大地の誕生祝いの席には、弥生が作ったご馳走が、溢れんばかりに並んでいる。

 だが。終わる直前まで久遠は何一つ、口に運ぶ事が出来なかった。

 真っ直ぐな目を両親に向け、大地が衝撃的な事を言い始めたからである。

「父さん、母さん、話がある」

「どうした。改まって」

「何か、重大な話?」

「うん」

 背が高くなった大地は最近、久遠を見下ろすようになっている。

 本人は気づいていないようだが。

「俺、人間になりたい」











「大地。どうして許可なく勝手に人間の世界へ行った?」

 誕生会の数日前。

 龍宮城入り口にある庭園まで、久遠は大地を追い詰めた。

 閉じられた裏門の前。高塀に背をぴったりとつけ、大地は叫び声をあげた。

「父さん…………話せばわかる。わかる。わかる!」

 久遠に対する恐怖で、大地の顔は真っ青になっている。

「約束を破るなと言ったはずだ。風波滅(フーゲルト)!」

「ギャァァァアァァッ!!!」

 空気が動いて激しく吹き飛ばされ、くるくる回り、大地は塀に打ちつけられた。

 ガンッ!!

 …………いつから自分は、こんなに怒りっぽくなってしまったのだろう。

 久遠は今、自分がしてしまった事に呆然とした。

 だが風に飛ばされたくらいで死ぬような息子では無い。

 最近手合わせをしていないが、久遠と同じくらいには強くなっただろう。

「いつまでも欲望を制御出来ないのは何故だ」

 それは自分にも言いたい。

「あっちの世界でさくらが叫んでいたから、放っておけなかったんだ!」

 小さな頃からほぼ毎日、一日の終わりになると、大地は最新式の『龍の目』が設置されたホシガリの塔へと足を運んでいた。

 婚約者であるさくらや人間世界の様子を、注意深く見守るためである。

 今回は婚約者が何らかのピンチに陥ったため、大地は勝手に駆けつけたらしい。

「大事な授業を自習にし、自分の都合を優先するとは何事だ! お前はまず、自分の心配をしなさい! 誰かを守るのはそれからだ!」

 史上最年少という若さで龍宮城教師の資格を獲得し、大地は周囲を驚かせた。

 しかも教師の仕事を、神々の想像をはるかに超えた手腕で立派に勤め上げている。

 星狩が、大地を絶賛していたことを思い出す。

『いやあ……大地様は本当に、大したお方ですよ。何しろ仕事が早い。あと、生徒からの人気が圧倒的です。人間について教える師範の資格を、未成年のうちに取れたのは異例中の異例でした。教えている内容は的確で、基本からは逸脱していません』

 豊富な知識を持つ大地の授業は教え方こそ大雑把だが、それ故にわかりやすく、生徒達からの評判がとても良かった。

 大地は小さな神々の心に寄り添える、頼もしい存在に成長を遂げたようである。

 後から聞いた星狩の話によると、大地は自習にした授業の振替日時を、きちんと決めていたらしいのだが。

 久遠は息子の雑な仕事っぷりに腹が立ち、彼を心配し過ぎていた。

 さくらに惹かれ、自身を顧みずに守りたくなる気持ちは久遠にも良くわかる。

 わかるのだが…………

 歩き始めるともうケロッとしており、大地は久遠に向かって新たな質問を始めた。

「ところで。どうして俺は『カフェ・ノスタルジア』に入れないんだ?」

 深名斗以上に大地は、心の回復が早いのか?

 いや。ただのアホなのか? ついていけない。

「…………何だ、その『カフェ・ノスタルジア』というのは?」

「さくらの家だ」

「…………ああ」

 久遠は昔、婚約者の家に大地が勝手に入る事の無いよう、施錠の術をかけていたのを思い出した。

「ムラムラしたお前がうっかり彼女の血を吸ってしまい、万が一子供でも出来たら、さくらのご両親に申し訳が立たないからな。お前が成人し、さくらが結婚を受け入れて初めて、入れるようにしておいた」

「あぁ?!」

 大地は久遠の言葉に相当カチンときたようだ。

 みるみるうちに顔が赤くなっていく。

「ムラムラなんてするかよ! 変態か?! 父さんと一緒にすんな!」

「…………何? 一緒にするなだと?! お前は私が変態だと言いたいのか!」

「変態的な想像してなきゃ、こんな嫌がらせするわけねぇだろ!」

「嫌がらせではない! まるで私が、ムラムラしてばかりいるようではないか!」

「違うなら何なんだ!」

 ああ言えばこう言う! 

 もう成人だというのに。少々、甘やかし過ぎたのだろうか。

 とても精神的に大人なったとは言い難い。
 
 ……息子の事ばかり言えないが。

「ふふ。珍しいですね。久遠様が声を荒げるとは」

 二人を探しに来た弥生がこの光景に驚き、呆れながら苦笑している。

 彼女の言葉で我に返り、久遠は急に冷静になった。

 失態だ。

 感情を爆発させるところを、すっかり弥生に見られてしまうとは。

「父さん、母さん。俺、人間になってあの世界に住みたい」

「人間に?!」

「…………」

 弥生は驚き、肩を震わせた。

「なぜだ。教師を辞めたいからか」

「教師の仕事は好きだ。辞めたいから決めたわけじゃない」

「なら…………」

 どうして人間として、人間世界で生きていきたがる?

 そもそも、そんな事が果たして可能なのだろうか。

 前例が無い話だ。

 久遠には想像もつかない。

 あの苦しみを、あの悲しさを、あの恐怖を…………

 大地はすっかり、忘れてしまったのか?

 小さな頃の大地が神々から受けて来た仕打ちを思い返すと、複雑である。

 大地を追い詰め、苦しめ、蔑み、皆の前で辱めた奴らも、思い返せば同じ『教師』だった。

「神が持つ力を全て失う事になる。それでも良いのか?」

「人間に必要な力以外は、全部返す。欲しがる奴らには、くれてやったっていい。上手く言えないけど、俺が欲しいのはそういう力(・・・・・)じゃない」

 人間の世界へ行けばまた、同じような目に遭ってしまうかも知れないのに?

 力を失ってもいいというのか。

 排他的な考えを持つ生き物は、決して神々だけというわけでは無い。

 人間も、全く同じだ。

 あの忌まわしき者達から大地は学び取り、考えさせられたことが多かったろう。

 すっかり癒えて忘れられるような、痕が残らないような心の傷では無かったはず。

「俺は人間や人間の世界に憧れてる。だから、さくらと同じ生き物になりたい。なるべく早く」

 知らず知らずのうちに、久遠の目に涙が浮かぶ。

 大地には、誰よりも、幸せになって欲しい。

 さくらと共に生きて行くのは、とても良い事だとも思う。

 『人間』になったその先に、大地の幸せがあるのならいいが…………

 
「久遠様、私は大地に賛成です。行きたいのであれば、行かせてあげたい」


 弥生の言葉に、久遠は驚く。

「君まで!」

「大地がそうしたいのなら」

「…………」

 喉の奥から出そうになった言葉を、飲み込むしか無くなってしまう。

『さくらをこちらの世界へ、呼べば良いではないか…………』

 いや。この考えは、大地の希望に反している。

 良い結果に結びつかない。

 生贄に選ばれ、人間世界では辛い目にばかり遭ってきた弥生が応援している。

 親として見守るしか無いのか…………

 久遠と目が合い、大地はこう尋ねてきた。

「心配?」

「ああ、そうだな。だが、心配するのが我々の役目だ。お前は気にしなくていい」

 大地は自分の子であり弥生の子だ。

 半分は人間の血を引いている。

 人間になりたいと思っても、不思議では無い。

 目が合うと、つい強がって、微笑んでしまう。

 これから先も永遠に、神にも人にもなれない息子。

 神々の運命すら大きく変えてしまう、特殊な存在である事に変わりない。


 だから、選んだ道を生きるしかない。


「────わかった。お前が決めたことなら反対はしない。人間の世界に住みたいのなら、そうすればいい」


「やった!!」


 猛反対されると思ったのだろう。大地は飛び上がりそうな勢いで喜んでいる。
 
 久遠の目が、そんな大地を射すくめた。

「だが一つだけ、教えて欲しい」

「何?」

「どうして、人間に憧れる?」

 ただ純粋に知りたい。

 久遠は人間になりたいと思ったことが、ただの一度も無かったから。

「人は助けあい、支え合える。相手の良い部分を認め、尊敬し合える。経験を通して痛みを知り、学ぶ事が出来る。互いに刺激し、高め合える」

 久遠と弥生はそれを聞くと、しばらく言葉が出てこなくなった。

 久遠は逆境に負けず前向きに育ってくれた息子が、内心はとても誇らしい。

 誰にも潰される事なく、よくぞここまで立派に育ってくれたと思う。

 大地はきっと彼なりに人間の悪い部分も学び、それを充分わかった上で、こう言っているのだろう。

 相手の良い部分を敬う。

 その大切さを知らず、自分以外の誰かを平気で傷つける神々の、なんと多い事か。

 黒奇岩城の教師たちのように。

「あなたを本物の人間にしてくれるのは、まわりにいる人々なのかも知れないわね」

 弥生が言った。

「大地。憧れと感謝があなたを輝かせてくれる。どこにいても、それは変わらないと思うわ」

 久遠は弥生を見た。

 初めて会った頃とは違う、慈愛に満ちた微笑みを、彼女は我が子に見せている。

「人間の世界で生きてみて、苦しくなったら帰って来てね」

 本人が前を向き、自分自身の道を決めたいというのなら…………

 応援してやりたい。

 大地の表情は、どこまでも先を見据えており、久遠も自然と笑顔になった。

「……人間世界に住むのは、きちんと仕事に区切りをつけてからだぞ」

 大地は緊張を解いた様子で、大きく頷いた。

 固い意志を秘めた視線は、揺るがない。

「認めてくれてありがとう。父さん、母さん」

「お前はもう大人だ。生き方に口出しはしない。だがもしも、お前に間違いがあったならその時は容赦しない。死を迎えるまで、私はお前の親だからな」

 久遠の言葉に、大地は満面の笑顔を見せた。

 明るい桃色の髪を持つ、唯一無二の魅力で溢れている我が子がまぶしい。

「助けが欲しい時は遠慮無く、いつでも言いなさい」


 本当の意味で心身共に成長できるのは、子供では無く親の方なのかも知れない。


 親は子のために自身の振る舞いを、常に振り返らざるを得ないから。






 
 

 それから幾日かが過ぎた。

『夏祭りを見たい。今すぐ行きたい。何をグズグズしている。久遠!』

 深名斗は側近の久遠に命令し、岩時祭りをこっそり見ようと画策している。

「…………直接行くのは、まず無理ですね──」

 また悪さしたから、あなた様は力を全て奪われ、謹慎中なのでしょうが!

天滅(テス)か…………」

 ギクッ。

 深名斗の口からいきなり、久遠にしか唱えられない力の名が発せられた。

 なぜ深名斗が、風の神しか知らぬ『天滅(テス)』の名を知っている?

「あの時は本当にワクワクした! お前にまさか、あんな力があったとはな!」

 さては、こっそり観察していたな。

 妙な事をいきなり、思い出さないで欲しい。

「久遠よ。天滅(テス)はギリアウトだ。黒奇岩城を消滅させたのだからな。しかし俺はお前の罪を、あの時こっそり見逃してやったんだぞ」

 侵偃と伽蛇、そして彼らの配下の罪と罰はとても重い。

 だが黒奇岩城そのものを久遠が崩壊させたことに、強い反発を示す者が現れた。
 
 深名斗はそんな黒龍側の神の不満を圧倒的な力で抑えつけ、あれは正当防衛だったという理屈で、無理やり久遠を側近に留めた。

 まあ……深名斗が黒龍側から久遠を守ってくれたのは、有難い話ではあるのだが。

「──祭りを部屋から見るだけなら良いでしょう。しばしお待ちを」

 これを聞くなり、深名斗の態度はガラッと変わった。

 嬉しそうにソワソワしている。

「それでこそ久遠。側近の中でお前は恐らく最強だ。よろしく頼むぞ!」


 これから何回同じ手法で、言う事を聞かされ続けることだろう。


 久遠は天を仰ぎながら、『天枢(ドゥーベ)』を唱えた。


 深名斗の部屋の壁面には、岩時祭りの風景が広がってゆく。


 明るい提灯(ちょうちん)


 地を照らす灯篭(とうろう)


 祭囃子(まつりばやし)


 打ちあがる花火。


 人々の歓声。


 最強神の心をときめかせる、人間世界の風景。


「さあ、祭りの始まりだな」


「…………は」


 これからも大地の成長を見守り、弥生と一緒に過ごせるのなら。



 この時間を最強神の側近として捧げる事など、容易いものだ。



 龍宮城へ帰れば、今日も優しい弥生の笑顔が自分を迎えてくれるだろう。



『生まれてきてくれて、ありがとう』



 人間世界を見ながら久遠は心の中でそう呟き、今より明るい未来に想いを馳せた。