大地は今日で18歳。
立派な成人だ。
だが『大人』とは一体何なのだ? と久遠は思う。
様々な葛藤と上手く向き合える者こそが、大人なのだろうか?
大地の誕生祝いの席には、弥生が作ったご馳走が、溢れんばかりに並んでいる。
だが。終わる直前まで久遠は何一つ、口に運ぶ事が出来なかった。
真っ直ぐな目を両親に向け、大地が衝撃的な事を言い始めたからである。
「父さん、母さん、話がある」
「どうした。改まって」
「何か、重大な話?」
「うん」
背が高くなった大地は最近、久遠を見下ろすようになっている。
本人は気づいていないようだが。
「俺、人間になりたい」
「大地。どうして許可なく勝手に人間の世界へ行った?」
誕生会の数日前。
龍宮城入り口にある庭園まで、久遠は大地を追い詰めた。
閉じられた裏門の前。高塀に背をぴったりとつけ、大地は叫び声をあげた。
「父さん…………話せばわかる。わかる。わかる!」
久遠に対する恐怖で、大地の顔は真っ青になっている。
「約束を破るなと言ったはずだ。風波滅!」
「ギャァァァアァァッ!!!」
空気が動いて激しく吹き飛ばされ、くるくる回り、大地は塀に打ちつけられた。
ガンッ!!
…………いつから自分は、こんなに怒りっぽくなってしまったのだろう。
久遠は今、自分がしてしまった事に呆然とした。
だが風に飛ばされたくらいで死ぬような息子では無い。
最近手合わせをしていないが、久遠と同じくらいには強くなっただろう。
「いつまでも欲望を制御出来ないのは何故だ」
それは自分にも言いたい。
「あっちの世界でさくらが叫んでいたから、放っておけなかったんだ!」
小さな頃からほぼ毎日、一日の終わりになると、大地は最新式の『龍の目』が設置されたホシガリの塔へと足を運んでいた。
婚約者であるさくらや人間世界の様子を、注意深く見守るためである。
今回は婚約者が何らかのピンチに陥ったため、大地は勝手に駆けつけたらしい。
「大事な授業を自習にし、自分の都合を優先するとは何事だ! お前はまず、自分の心配をしなさい! 誰かを守るのはそれからだ!」
史上最年少という若さで龍宮城教師の資格を獲得し、大地は周囲を驚かせた。
しかも教師の仕事を、神々の想像をはるかに超えた手腕で立派に勤め上げている。
星狩が、大地を絶賛していたことを思い出す。
『いやあ……大地様は本当に、大したお方ですよ。何しろ仕事が早い。あと、生徒からの人気が圧倒的です。人間について教える師範の資格を、未成年のうちに取れたのは異例中の異例でした。教えている内容は的確で、基本からは逸脱していません』
豊富な知識を持つ大地の授業は教え方こそ大雑把だが、それ故にわかりやすく、生徒達からの評判がとても良かった。
大地は小さな神々の心に寄り添える、頼もしい存在に成長を遂げたようである。
後から聞いた星狩の話によると、大地は自習にした授業の振替日時を、きちんと決めていたらしいのだが。
久遠は息子の雑な仕事っぷりに腹が立ち、彼を心配し過ぎていた。
さくらに惹かれ、自身を顧みずに守りたくなる気持ちは久遠にも良くわかる。
わかるのだが…………
歩き始めるともうケロッとしており、大地は久遠に向かって新たな質問を始めた。
「ところで。どうして俺は『カフェ・ノスタルジア』に入れないんだ?」
深名斗以上に大地は、心の回復が早いのか?
いや。ただのアホなのか? ついていけない。
「…………何だ、その『カフェ・ノスタルジア』というのは?」
「さくらの家だ」
「…………ああ」
久遠は昔、婚約者の家に大地が勝手に入る事の無いよう、施錠の術をかけていたのを思い出した。
「ムラムラしたお前がうっかり彼女の血を吸ってしまい、万が一子供でも出来たら、さくらのご両親に申し訳が立たないからな。お前が成人し、さくらが結婚を受け入れて初めて、入れるようにしておいた」
「あぁ?!」
大地は久遠の言葉に相当カチンときたようだ。
みるみるうちに顔が赤くなっていく。
「ムラムラなんてするかよ! 変態か?! 父さんと一緒にすんな!」
「…………何? 一緒にするなだと?! お前は私が変態だと言いたいのか!」
「変態的な想像してなきゃ、こんな嫌がらせするわけねぇだろ!」
「嫌がらせではない! まるで私が、ムラムラしてばかりいるようではないか!」
「違うなら何なんだ!」
ああ言えばこう言う!
もう成人だというのに。少々、甘やかし過ぎたのだろうか。
とても精神的に大人なったとは言い難い。
……息子の事ばかり言えないが。
「ふふ。珍しいですね。久遠様が声を荒げるとは」
二人を探しに来た弥生がこの光景に驚き、呆れながら苦笑している。
彼女の言葉で我に返り、久遠は急に冷静になった。
失態だ。
感情を爆発させるところを、すっかり弥生に見られてしまうとは。
「父さん、母さん。俺、人間になってあの世界に住みたい」
「人間に?!」
「…………」
弥生は驚き、肩を震わせた。
「なぜだ。教師を辞めたいからか」
「教師の仕事は好きだ。辞めたいから決めたわけじゃない」
「なら…………」
どうして人間として、人間世界で生きていきたがる?
そもそも、そんな事が果たして可能なのだろうか。
前例が無い話だ。
久遠には想像もつかない。
あの苦しみを、あの悲しさを、あの恐怖を…………
大地はすっかり、忘れてしまったのか?
小さな頃の大地が神々から受けて来た仕打ちを思い返すと、複雑である。
大地を追い詰め、苦しめ、蔑み、皆の前で辱めた奴らも、思い返せば同じ『教師』だった。
「神が持つ力を全て失う事になる。それでも良いのか?」
「人間に必要な力以外は、全部返す。欲しがる奴らには、くれてやったっていい。上手く言えないけど、俺が欲しいのはそういう力じゃない」
人間の世界へ行けばまた、同じような目に遭ってしまうかも知れないのに?
力を失ってもいいというのか。
排他的な考えを持つ生き物は、決して神々だけというわけでは無い。
人間も、全く同じだ。
あの忌まわしき者達から大地は学び取り、考えさせられたことが多かったろう。
すっかり癒えて忘れられるような、痕が残らないような心の傷では無かったはず。
「俺は人間や人間の世界に憧れてる。だから、さくらと同じ生き物になりたい。なるべく早く」
知らず知らずのうちに、久遠の目に涙が浮かぶ。
大地には、誰よりも、幸せになって欲しい。
さくらと共に生きて行くのは、とても良い事だとも思う。
『人間』になったその先に、大地の幸せがあるのならいいが…………
「久遠様、私は大地に賛成です。行きたいのであれば、行かせてあげたい」
弥生の言葉に、久遠は驚く。
「君まで!」
「大地がそうしたいのなら」
「…………」
喉の奥から出そうになった言葉を、飲み込むしか無くなってしまう。
『さくらをこちらの世界へ、呼べば良いではないか…………』
いや。この考えは、大地の希望に反している。
良い結果に結びつかない。
生贄に選ばれ、人間世界では辛い目にばかり遭ってきた弥生が応援している。
親として見守るしか無いのか…………
久遠と目が合い、大地はこう尋ねてきた。
「心配?」
「ああ、そうだな。だが、心配するのが我々の役目だ。お前は気にしなくていい」
大地は自分の子であり弥生の子だ。
半分は人間の血を引いている。
人間になりたいと思っても、不思議では無い。
目が合うと、つい強がって、微笑んでしまう。
これから先も永遠に、神にも人にもなれない息子。
神々の運命すら大きく変えてしまう、特殊な存在である事に変わりない。
だから、選んだ道を生きるしかない。
「────わかった。お前が決めたことなら反対はしない。人間の世界に住みたいのなら、そうすればいい」
「やった!!」
猛反対されると思ったのだろう。大地は飛び上がりそうな勢いで喜んでいる。
久遠の目が、そんな大地を射すくめた。
「だが一つだけ、教えて欲しい」
「何?」
「どうして、人間に憧れる?」
ただ純粋に知りたい。
久遠は人間になりたいと思ったことが、ただの一度も無かったから。
「人は助けあい、支え合える。相手の良い部分を認め、尊敬し合える。経験を通して痛みを知り、学ぶ事が出来る。互いに刺激し、高め合える」
久遠と弥生はそれを聞くと、しばらく言葉が出てこなくなった。
久遠は逆境に負けず前向きに育ってくれた息子が、内心はとても誇らしい。
誰にも潰される事なく、よくぞここまで立派に育ってくれたと思う。
大地はきっと彼なりに人間の悪い部分も学び、それを充分わかった上で、こう言っているのだろう。
相手の良い部分を敬う。
その大切さを知らず、自分以外の誰かを平気で傷つける神々の、なんと多い事か。
黒奇岩城の教師たちのように。
「あなたを本物の人間にしてくれるのは、まわりにいる人々なのかも知れないわね」
弥生が言った。
「大地。憧れと感謝があなたを輝かせてくれる。どこにいても、それは変わらないと思うわ」
久遠は弥生を見た。
初めて会った頃とは違う、慈愛に満ちた微笑みを、彼女は我が子に見せている。
「人間の世界で生きてみて、苦しくなったら帰って来てね」
本人が前を向き、自分自身の道を決めたいというのなら…………
応援してやりたい。
大地の表情は、どこまでも先を見据えており、久遠も自然と笑顔になった。
「……人間世界に住むのは、きちんと仕事に区切りをつけてからだぞ」
大地は緊張を解いた様子で、大きく頷いた。
固い意志を秘めた視線は、揺るがない。
「認めてくれてありがとう。父さん、母さん」
「お前はもう大人だ。生き方に口出しはしない。だがもしも、お前に間違いがあったならその時は容赦しない。死を迎えるまで、私はお前の親だからな」
久遠の言葉に、大地は満面の笑顔を見せた。
明るい桃色の髪を持つ、唯一無二の魅力で溢れている我が子がまぶしい。
「助けが欲しい時は遠慮無く、いつでも言いなさい」
本当の意味で心身共に成長できるのは、子供では無く親の方なのかも知れない。
親は子のために自身の振る舞いを、常に振り返らざるを得ないから。
それから幾日かが過ぎた。
『夏祭りを見たい。今すぐ行きたい。何をグズグズしている。久遠!』
深名斗は側近の久遠に命令し、岩時祭りをこっそり見ようと画策している。
「…………直接行くのは、まず無理ですね──」
また悪さしたから、あなた様は力を全て奪われ、謹慎中なのでしょうが!
「天滅か…………」
ギクッ。
深名斗の口からいきなり、久遠にしか唱えられない力の名が発せられた。
なぜ深名斗が、風の神しか知らぬ『天滅』の名を知っている?
「あの時は本当にワクワクした! お前にまさか、あんな力があったとはな!」
さては、こっそり観察していたな。
妙な事をいきなり、思い出さないで欲しい。
「久遠よ。天滅はギリアウトだ。黒奇岩城を消滅させたのだからな。しかし俺はお前の罪を、あの時こっそり見逃してやったんだぞ」
侵偃と伽蛇、そして彼らの配下の罪と罰はとても重い。
だが黒奇岩城そのものを久遠が崩壊させたことに、強い反発を示す者が現れた。
深名斗はそんな黒龍側の神の不満を圧倒的な力で抑えつけ、あれは正当防衛だったという理屈で、無理やり久遠を側近に留めた。
まあ……深名斗が黒龍側から久遠を守ってくれたのは、有難い話ではあるのだが。
「──祭りを部屋から見るだけなら良いでしょう。しばしお待ちを」
これを聞くなり、深名斗の態度はガラッと変わった。
嬉しそうにソワソワしている。
「それでこそ久遠。側近の中でお前は恐らく最強だ。よろしく頼むぞ!」
これから何回同じ手法で、言う事を聞かされ続けることだろう。
久遠は天を仰ぎながら、『天枢』を唱えた。
深名斗の部屋の壁面には、岩時祭りの風景が広がってゆく。
明るい提灯。
地を照らす灯篭。
祭囃子。
打ちあがる花火。
人々の歓声。
最強神の心をときめかせる、人間世界の風景。
「さあ、祭りの始まりだな」
「…………は」
これからも大地の成長を見守り、弥生と一緒に過ごせるのなら。
この時間を最強神の側近として捧げる事など、容易いものだ。
龍宮城へ帰れば、今日も優しい弥生の笑顔が自分を迎えてくれるだろう。
『生まれてきてくれて、ありがとう』
人間世界を見ながら久遠は心の中でそう呟き、今より明るい未来に想いを馳せた。
立派な成人だ。
だが『大人』とは一体何なのだ? と久遠は思う。
様々な葛藤と上手く向き合える者こそが、大人なのだろうか?
大地の誕生祝いの席には、弥生が作ったご馳走が、溢れんばかりに並んでいる。
だが。終わる直前まで久遠は何一つ、口に運ぶ事が出来なかった。
真っ直ぐな目を両親に向け、大地が衝撃的な事を言い始めたからである。
「父さん、母さん、話がある」
「どうした。改まって」
「何か、重大な話?」
「うん」
背が高くなった大地は最近、久遠を見下ろすようになっている。
本人は気づいていないようだが。
「俺、人間になりたい」
「大地。どうして許可なく勝手に人間の世界へ行った?」
誕生会の数日前。
龍宮城入り口にある庭園まで、久遠は大地を追い詰めた。
閉じられた裏門の前。高塀に背をぴったりとつけ、大地は叫び声をあげた。
「父さん…………話せばわかる。わかる。わかる!」
久遠に対する恐怖で、大地の顔は真っ青になっている。
「約束を破るなと言ったはずだ。風波滅!」
「ギャァァァアァァッ!!!」
空気が動いて激しく吹き飛ばされ、くるくる回り、大地は塀に打ちつけられた。
ガンッ!!
…………いつから自分は、こんなに怒りっぽくなってしまったのだろう。
久遠は今、自分がしてしまった事に呆然とした。
だが風に飛ばされたくらいで死ぬような息子では無い。
最近手合わせをしていないが、久遠と同じくらいには強くなっただろう。
「いつまでも欲望を制御出来ないのは何故だ」
それは自分にも言いたい。
「あっちの世界でさくらが叫んでいたから、放っておけなかったんだ!」
小さな頃からほぼ毎日、一日の終わりになると、大地は最新式の『龍の目』が設置されたホシガリの塔へと足を運んでいた。
婚約者であるさくらや人間世界の様子を、注意深く見守るためである。
今回は婚約者が何らかのピンチに陥ったため、大地は勝手に駆けつけたらしい。
「大事な授業を自習にし、自分の都合を優先するとは何事だ! お前はまず、自分の心配をしなさい! 誰かを守るのはそれからだ!」
史上最年少という若さで龍宮城教師の資格を獲得し、大地は周囲を驚かせた。
しかも教師の仕事を、神々の想像をはるかに超えた手腕で立派に勤め上げている。
星狩が、大地を絶賛していたことを思い出す。
『いやあ……大地様は本当に、大したお方ですよ。何しろ仕事が早い。あと、生徒からの人気が圧倒的です。人間について教える師範の資格を、未成年のうちに取れたのは異例中の異例でした。教えている内容は的確で、基本からは逸脱していません』
豊富な知識を持つ大地の授業は教え方こそ大雑把だが、それ故にわかりやすく、生徒達からの評判がとても良かった。
大地は小さな神々の心に寄り添える、頼もしい存在に成長を遂げたようである。
後から聞いた星狩の話によると、大地は自習にした授業の振替日時を、きちんと決めていたらしいのだが。
久遠は息子の雑な仕事っぷりに腹が立ち、彼を心配し過ぎていた。
さくらに惹かれ、自身を顧みずに守りたくなる気持ちは久遠にも良くわかる。
わかるのだが…………
歩き始めるともうケロッとしており、大地は久遠に向かって新たな質問を始めた。
「ところで。どうして俺は『カフェ・ノスタルジア』に入れないんだ?」
深名斗以上に大地は、心の回復が早いのか?
いや。ただのアホなのか? ついていけない。
「…………何だ、その『カフェ・ノスタルジア』というのは?」
「さくらの家だ」
「…………ああ」
久遠は昔、婚約者の家に大地が勝手に入る事の無いよう、施錠の術をかけていたのを思い出した。
「ムラムラしたお前がうっかり彼女の血を吸ってしまい、万が一子供でも出来たら、さくらのご両親に申し訳が立たないからな。お前が成人し、さくらが結婚を受け入れて初めて、入れるようにしておいた」
「あぁ?!」
大地は久遠の言葉に相当カチンときたようだ。
みるみるうちに顔が赤くなっていく。
「ムラムラなんてするかよ! 変態か?! 父さんと一緒にすんな!」
「…………何? 一緒にするなだと?! お前は私が変態だと言いたいのか!」
「変態的な想像してなきゃ、こんな嫌がらせするわけねぇだろ!」
「嫌がらせではない! まるで私が、ムラムラしてばかりいるようではないか!」
「違うなら何なんだ!」
ああ言えばこう言う!
もう成人だというのに。少々、甘やかし過ぎたのだろうか。
とても精神的に大人なったとは言い難い。
……息子の事ばかり言えないが。
「ふふ。珍しいですね。久遠様が声を荒げるとは」
二人を探しに来た弥生がこの光景に驚き、呆れながら苦笑している。
彼女の言葉で我に返り、久遠は急に冷静になった。
失態だ。
感情を爆発させるところを、すっかり弥生に見られてしまうとは。
「父さん、母さん。俺、人間になってあの世界に住みたい」
「人間に?!」
「…………」
弥生は驚き、肩を震わせた。
「なぜだ。教師を辞めたいからか」
「教師の仕事は好きだ。辞めたいから決めたわけじゃない」
「なら…………」
どうして人間として、人間世界で生きていきたがる?
そもそも、そんな事が果たして可能なのだろうか。
前例が無い話だ。
久遠には想像もつかない。
あの苦しみを、あの悲しさを、あの恐怖を…………
大地はすっかり、忘れてしまったのか?
小さな頃の大地が神々から受けて来た仕打ちを思い返すと、複雑である。
大地を追い詰め、苦しめ、蔑み、皆の前で辱めた奴らも、思い返せば同じ『教師』だった。
「神が持つ力を全て失う事になる。それでも良いのか?」
「人間に必要な力以外は、全部返す。欲しがる奴らには、くれてやったっていい。上手く言えないけど、俺が欲しいのはそういう力じゃない」
人間の世界へ行けばまた、同じような目に遭ってしまうかも知れないのに?
力を失ってもいいというのか。
排他的な考えを持つ生き物は、決して神々だけというわけでは無い。
人間も、全く同じだ。
あの忌まわしき者達から大地は学び取り、考えさせられたことが多かったろう。
すっかり癒えて忘れられるような、痕が残らないような心の傷では無かったはず。
「俺は人間や人間の世界に憧れてる。だから、さくらと同じ生き物になりたい。なるべく早く」
知らず知らずのうちに、久遠の目に涙が浮かぶ。
大地には、誰よりも、幸せになって欲しい。
さくらと共に生きて行くのは、とても良い事だとも思う。
『人間』になったその先に、大地の幸せがあるのならいいが…………
「久遠様、私は大地に賛成です。行きたいのであれば、行かせてあげたい」
弥生の言葉に、久遠は驚く。
「君まで!」
「大地がそうしたいのなら」
「…………」
喉の奥から出そうになった言葉を、飲み込むしか無くなってしまう。
『さくらをこちらの世界へ、呼べば良いではないか…………』
いや。この考えは、大地の希望に反している。
良い結果に結びつかない。
生贄に選ばれ、人間世界では辛い目にばかり遭ってきた弥生が応援している。
親として見守るしか無いのか…………
久遠と目が合い、大地はこう尋ねてきた。
「心配?」
「ああ、そうだな。だが、心配するのが我々の役目だ。お前は気にしなくていい」
大地は自分の子であり弥生の子だ。
半分は人間の血を引いている。
人間になりたいと思っても、不思議では無い。
目が合うと、つい強がって、微笑んでしまう。
これから先も永遠に、神にも人にもなれない息子。
神々の運命すら大きく変えてしまう、特殊な存在である事に変わりない。
だから、選んだ道を生きるしかない。
「────わかった。お前が決めたことなら反対はしない。人間の世界に住みたいのなら、そうすればいい」
「やった!!」
猛反対されると思ったのだろう。大地は飛び上がりそうな勢いで喜んでいる。
久遠の目が、そんな大地を射すくめた。
「だが一つだけ、教えて欲しい」
「何?」
「どうして、人間に憧れる?」
ただ純粋に知りたい。
久遠は人間になりたいと思ったことが、ただの一度も無かったから。
「人は助けあい、支え合える。相手の良い部分を認め、尊敬し合える。経験を通して痛みを知り、学ぶ事が出来る。互いに刺激し、高め合える」
久遠と弥生はそれを聞くと、しばらく言葉が出てこなくなった。
久遠は逆境に負けず前向きに育ってくれた息子が、内心はとても誇らしい。
誰にも潰される事なく、よくぞここまで立派に育ってくれたと思う。
大地はきっと彼なりに人間の悪い部分も学び、それを充分わかった上で、こう言っているのだろう。
相手の良い部分を敬う。
その大切さを知らず、自分以外の誰かを平気で傷つける神々の、なんと多い事か。
黒奇岩城の教師たちのように。
「あなたを本物の人間にしてくれるのは、まわりにいる人々なのかも知れないわね」
弥生が言った。
「大地。憧れと感謝があなたを輝かせてくれる。どこにいても、それは変わらないと思うわ」
久遠は弥生を見た。
初めて会った頃とは違う、慈愛に満ちた微笑みを、彼女は我が子に見せている。
「人間の世界で生きてみて、苦しくなったら帰って来てね」
本人が前を向き、自分自身の道を決めたいというのなら…………
応援してやりたい。
大地の表情は、どこまでも先を見据えており、久遠も自然と笑顔になった。
「……人間世界に住むのは、きちんと仕事に区切りをつけてからだぞ」
大地は緊張を解いた様子で、大きく頷いた。
固い意志を秘めた視線は、揺るがない。
「認めてくれてありがとう。父さん、母さん」
「お前はもう大人だ。生き方に口出しはしない。だがもしも、お前に間違いがあったならその時は容赦しない。死を迎えるまで、私はお前の親だからな」
久遠の言葉に、大地は満面の笑顔を見せた。
明るい桃色の髪を持つ、唯一無二の魅力で溢れている我が子がまぶしい。
「助けが欲しい時は遠慮無く、いつでも言いなさい」
本当の意味で心身共に成長できるのは、子供では無く親の方なのかも知れない。
親は子のために自身の振る舞いを、常に振り返らざるを得ないから。
それから幾日かが過ぎた。
『夏祭りを見たい。今すぐ行きたい。何をグズグズしている。久遠!』
深名斗は側近の久遠に命令し、岩時祭りをこっそり見ようと画策している。
「…………直接行くのは、まず無理ですね──」
また悪さしたから、あなた様は力を全て奪われ、謹慎中なのでしょうが!
「天滅か…………」
ギクッ。
深名斗の口からいきなり、久遠にしか唱えられない力の名が発せられた。
なぜ深名斗が、風の神しか知らぬ『天滅』の名を知っている?
「あの時は本当にワクワクした! お前にまさか、あんな力があったとはな!」
さては、こっそり観察していたな。
妙な事をいきなり、思い出さないで欲しい。
「久遠よ。天滅はギリアウトだ。黒奇岩城を消滅させたのだからな。しかし俺はお前の罪を、あの時こっそり見逃してやったんだぞ」
侵偃と伽蛇、そして彼らの配下の罪と罰はとても重い。
だが黒奇岩城そのものを久遠が崩壊させたことに、強い反発を示す者が現れた。
深名斗はそんな黒龍側の神の不満を圧倒的な力で抑えつけ、あれは正当防衛だったという理屈で、無理やり久遠を側近に留めた。
まあ……深名斗が黒龍側から久遠を守ってくれたのは、有難い話ではあるのだが。
「──祭りを部屋から見るだけなら良いでしょう。しばしお待ちを」
これを聞くなり、深名斗の態度はガラッと変わった。
嬉しそうにソワソワしている。
「それでこそ久遠。側近の中でお前は恐らく最強だ。よろしく頼むぞ!」
これから何回同じ手法で、言う事を聞かされ続けることだろう。
久遠は天を仰ぎながら、『天枢』を唱えた。
深名斗の部屋の壁面には、岩時祭りの風景が広がってゆく。
明るい提灯。
地を照らす灯篭。
祭囃子。
打ちあがる花火。
人々の歓声。
最強神の心をときめかせる、人間世界の風景。
「さあ、祭りの始まりだな」
「…………は」
これからも大地の成長を見守り、弥生と一緒に過ごせるのなら。
この時間を最強神の側近として捧げる事など、容易いものだ。
龍宮城へ帰れば、今日も優しい弥生の笑顔が自分を迎えてくれるだろう。
『生まれてきてくれて、ありがとう』
人間世界を見ながら久遠は心の中でそう呟き、今より明るい未来に想いを馳せた。