侵偃(シンエン)が使っていた術式『黒天璣(クスフェクダ)』と『黒玉衡(クスアリオト)』は比較的、簡単に解除することが出来た。

 力を破る者がここを訪れるなど、闇の神は夢にも思っていなかったのだろう。

 そのおかげで、守りが甘い。

 あたりには、燦然と光が溢れ出した。

 久遠は『天璇(メラク)』と『玉衡(アリオト)』を使い、さくらの体を丁寧に包み込んだ。

 彼女はみるみるうちに呼吸が楽になって頬に赤みがさし、何とか命が助かった。

 久遠はひとまずほっとし、さくらの両親に笑いかけた。

「命を落とさずに済んで、本当に良かった…………」

 さくらの両親が彼女の無事を確認し、嬉しさのあまり涙を溢れさせている。

「ああ、久遠様。本当にありがとうございます」

「本当に何とお礼を言っていいか…………」

「いえ…………」

 久遠はさくらの両親と共に、嬉しさだけに浸ることが出来ない。

 闇の神に対する怒りが、同時に沸き起こっているからだ。

 ただの遊びだとでも言うのか?

 人間の命を使った悪趣味な、闇の神が行ういつもの実験だったのか。

 どのくらい力で影響を与えれば、人は自死するのだろうか? という。

 神では無く人の心を使って、好奇心を剥き出しにしながら、試している。

 久遠は言い知れぬ怒りを覚えた。

「久遠様…………」

 弥生はぎゅっと、久遠の手を握りしめた。

 どうやら妻は、久遠の怒りを鎮めようとしてくれているらしい。

 彼女の表情は柔らかく、優しく、久遠の心を包み込んでくれている。

「久遠様は、私を助けてくださいました。今度は私がお助けする番です」

「…………弥生」

 幸いこの世界のどこかには、クスコ様が降臨しているはずです。

 私の体にもう一度、宿っていただけるかも知れません。

「…………大丈夫なのか」

 弥生は頷き、目を瞑った。

 すると。次に弥生が目を開けた時にはもう、揺蕩うような青色の瞳となり、クスコが彼女の中に降臨していた。

「久遠よ。久しぶりじゃの」

「クスコ…………」

「相変わらず、酷い目にあっているようじゃな。その顔を見ればわかる」

「どうか教えて下さい。どうすれば闇の神一派に立ち向かい、抵抗する事が出来るのでしょうか」

「結論から言えば。我々には、真っ向から闇に抵抗する手段などありはせぬ。まともに戦うと、いずれは自分達が取り込まれ、挙句の果てには闇に転じてしまうからじゃ」

「…………!」

「じゃが。人の心を救うために考え抜き、守り抜く闘いなら、出来るかも知れぬ」

「…………」

「闇に転じないため、闇を暴く力を使う。これも一生をかけた闘いの一つ」

 闇を暴く。

 今なら、出来るかも知れない。

 大切な両親や清名の無残な死を今、鮮明に思い出す。

 人間世界にまで及ぶ、闇の神の強い影響力。

 大切な者達の報われない無残な死を、目の当たりにするのはもうごめんだ。

 これ以上、汚い奴らの思い通りになってたまるか!

 何が間違いで何が正しいのかは、今ならば手に取る様に理解できる。

 何を一番、大切に想っていたいのかも。

 この命尽きる最後の一瞬まで、絶対に守り抜いてみせる。

 弥生と大地を。


 今度こそ。


 久遠が放つ暴風が、岩時神社全体に吹き荒れる。


 ────決して闇を許さない。


 ────どこだ。


 ────中心は、どこにある。


 空気の中に潜む闇を、久遠の風が洗いざらい浮かび上がらせる。


 嘘を。


 欺瞞を。


 差別を。


 偏見を。


「さあ、出て来い」


 醜い姿を、完全に浮かび上がらせろ。


 粉々に砕いて、終わらせてみせる。


 いつしか懐かしい霊獣達が、桜の木の中から姿を現した。


 獅子アイト。


 出戻った狛犬リョク。


 牡鹿のキヌリ。


 狐のウバキ。


 皆、生気を抜かれたような顔をしている。


「申し訳ありません、久遠様。岩時の地を守り切れず……」


 もう、この命で償うほかない。


 アイトは自身の剣を、自分の心臓部に今まさに、突き刺そうとしている。

「やめろ! お前らが自害したところで、誰も、何も、どこも、救われない」

 闇の神の影響を、アイトはモロに受けてしまったのだろう。

 彼をはじめとする霊獣達はまさに、洗脳されている状態だといっていい。

「アイト。お前達には、済まない事をした」

「…………久遠様? どうして謝られるのです」

「私は人間の世界を、岩時の地を、少々放ったらかしにし過ぎたようだ。お前たちの大切な『霊獣王(カン・アル)』を、私が奪っておきながら。子育てや仕事の忙しさに追われ、この地を守る事をすっかり失念していたのだからな。この地が再び闇に覆われたのは、私の責任でもある。大地が選んださくらが、あやうく命を落としそうになっていた。このままでは同様の不幸が、また起こってしまう」

 心の隙をつく卑怯な闇の神に、徹底的に付け込まれてしまう。

「そんな!」

「私にこの地を、生涯にわたって守らせてほしい。一体、何をされたんだ」

「……一向に力が、湧かないのです」

 一番元気だったはずの、アイトですらこんな調子だ。

 集まって来た他の霊獣達も、皆同様。

 ボーっとしていて、覇気がない。

「生きる希望が、まるで持てないのです。動きたくないし、何もしたくない。とても何かを守ろうなどと、思えない。もう、いっそのこと死んでしまいたい」

「お前らが死んでどうする。しっかりしろ!」

「もしかして岩時の霊水を、奪われてしまったのでは?」

 後から人間世界へ飛んできた梅が、森の奥にある斎主の岩戸の方を確認しに行き、やがて戻って来た。

「切り立った岩の間からは、いつもの湧水が一滴も染み出しておりませんでした」

 では霊水はどこへ?

「少し、天枢(ドゥーベ)の力を強めてみるか」

 久遠はさらに術を唱え、冷たくて透き通った風を放つ。

 すると。

 神社の中心にそびえている、一本の大木が霊水の香りをあたりにまき散らした。

「あれは…………」

 空風輪(クフリ)が消えた場所だ。

 どうやら霊水は、このご神木である桜の大樹がごくごくと飲み干しているらしい。

 また狂った空風輪(クフリ)が、『再発』しようとしているのだろうか。

 桜の木の、うろの中に。

 しかも不思議な事にその場所だけは、闇の力が干渉出来ずにいるようだ。

『もしかしたら、空風輪が再び大きくなろうとしているのか?』

 桜の木の中だけが光に満ちて、空気が綺麗な状態を保っている。

 赤ん坊の大地とさくらは、体の中から魂の一部をフワフワと浮かび上がらせた。

「…………?!」

 ご神木の『桜』が、何故か久遠の風の力に強い抵抗を始めた。

 力を跳ね返してきた瞬間、空気に大きな亀裂が入り、全てに影響を及ぼした。

『久遠ちゃん! 危ないっ!!』

 清名は久遠を守ろうとし、狂った桜の大樹の中へ、その体ごと飛び込んだ。


「清名!」


 久遠が考える暇もなく、清名の体はどんどん、桜の中で大きくなってゆく。


 桜の大樹が放つ力全てを、清名がその緑色の体全体で押しとどめた。


 桜の木の『うろ』は清名の中で一つの空間を作り出し、静寂を保っている。


 それっきり清名は、桜の木の中から抜け出せなくなってしまった。


『ああああ。こんな事になるなんて! これもアタシの運命なのかしらね~』


 梅は驚き、変わり果てた清名の姿を凝視した。

 しかも。

 大地とさくらの魂の一部が、龍の目になった清名の中に包み込まれている?!

「戻れっ!」

 久遠は風の力をさらに強めた。

「早く元に戻れ清名! 大地、さくら!!!」

 久遠がどんなに叫んでも彼らは、一向に元に戻ろうとしない。

 弥生の体を使って、クスコが言う。

「久遠よ、天璇(メラク)と同じじゃ。大地とさくらの心の一部を、清名が守ってくれたぞえ」

「どういう事です?」

「決してこれ以上、理不尽な者達に奪われたりせぬよう、安心できる時が来るまで、子供達の大切な心をここで守ってもらうのじゃ」

 清名に。

 ご神木は桃色に輝いて、大地とさくらの心の一部を、優しく包み込んでいる。

 彼らの魂は嬉しそうに、その光に反応している。

『心配いらないわ久遠ちゃん。しばらくここで、アタシが二人を守ってあ・げ・る』

 そのかわり、考えてよね!

 アタシ、ホントは動くのが大好きなんだから!

 このままでいるの、結構苦痛なんだからね。

 その『時』が来たら、ちゃんとアタシを自由にしてよね、久遠ちゃん。

「一時的に封じ込めるのも、守るためには有効な手ですね。この場所は最も適しているのかも」
 
 梅の言葉は尤もだ。

 あと一度でも、大地が汚い闇の神の手の者に攫われてしまったのなら。

 心が壊れてしまう可能性が大きい。

 だが。

 もし、大事な『希望』や『憧れ』を少しでも、この地に封じ込められたなら?

 久遠の『守りたい』という気持ちが、希望を伴った反応を示している。

 二人の赤子の魂の一部がその体から飛び出して、ご神木の中で守られている。

「何が起こってるんだ? この木に」

 霊獣のアイト達は思わず、桜の近くへと駆け寄った。

「見てると、元気が出て来るような…………」

 こんな、枯れ木だというのに。

 いつか咲いた日を、つい想像してしまう。

 全ての気持ちが吸い込まれてゆくかのよう。

 冷たい怒りも。

 溢れ出す悲しみも。

 温かな慈愛も。

「梅。頼みがある。この岩時の地に残ってはくれないだろうか。大地の婚約者であるさくらを、見守って欲しい。龍宮城の繁栄こそ、建立したあなたが最も強く掲げていた祈願だというのに……本当に済まないが」

 梅は首を縦に振った。

 龍宮城には今、風雅がいる。

 城での仕事を継続したい気持ちもあったが、心配はいらない。

「わかりました。大切なこの地を、さくらさんを、見守りましょう」

「ああ、助かる。しばらくの間だけでいい」

 久遠が自分に頼みごとをした事など、いまだかつて一度も無かった。

 梅は彼の言葉を反芻する。

 城の持ち主であるはずなのに、最強神の側近になってしまった久遠は、多忙のせいでなかなか天の原へすら帰れないでいる。

 全てを見守りたい気持ちなのは、彼も同じなのだろう。

「大地様はまだ1歳になったばかり。婚約者が出来たという事にも驚きでしたのに。弥生や久遠様とお会いしてからというもの、驚いてばかりです」


 梅は可笑しそうに笑い、人間に変化して、さくらの両親の前に姿を現した。


 黒髪を後ろに束ね、浅黄色の浴衣の上に白いスモックをかぶった、美しい女性。


 さくらの両親は今、大きな何かが、彼女を守ってくれるように思えてならない。


「はじめまして。梅と申します。これから、どうぞよろしくお願い申し上げます」