本祭りの夜。

 人間に扮した久遠は、弥生と手を繋ぎながら、縁日を楽しんでいる。

 笛の音、人のざわめき。

「久遠さま! こっちです。早く!」

 子供のようにはしゃぎながら、弥生は次々と祭りの屋台に顔を出す。

 生贄の儀式は、秘め事である。

 祭りを取り仕切る町長や神職者、神社関係者以外、彼女がどういう存在なのかを知らない人間がほとんどだ。

 結婚を申し込んで、本当に良かった。

 笑顔が輝く弥生を見て、久遠は嬉しくて胸がいっぱいになる。

 彼女が故郷を楽しめる最後の一夜。

 久遠と弥生は、味の違うりんご飴を互いに「あーん」したりしながら、至福の時を過ごしていた。

 仲睦まじい様子で、恋人というより既に夫婦のようである。

「お。アツ~い若夫婦さん! どうぞこちら、見てって下さい!」

 威勢のいい人間にからかわれるのも、悪くない。

 ヨーヨーすくいや射的をしながら時々目が合い、微笑み合う幸せ。

 つかの間の優しい時間を、弥生と存分に楽しく過ごすことが出来た。

 間近で見る弥生は、はっと息を飲むほど美しいが、人に他ならない。

 最強神が降臨する女性には、とても見えないから驚きである。

「子供が好きなの?」

「ええ。大好きです!」

 はしゃいでいる子供達を見ながら、弥生も嬉しそうに笑っている。

「子供達の笑顔に、心が救われます」

 久遠は弥生の笑顔に救われている。

「最近、怒りを抑えられない夢を見ました。その時、久遠様が登場して、私を助けて下さったんです」

「私が?」

「はい。その節はありがとうございました!」

 久遠は笑った。

「覚えてないよ」

「あの白龍は、久遠様に間違いありません。あなたは夢の中で『命を無駄にするな。心の闇を自らの力で払い、清めて静めろ』と仰いました」

「説教臭い白龍だな」

「夢の中でしたけど、嬉しかったです。まさか、妻にしていただけるとは、思いもよりませんでした」

「……嬉しい?」

「ええ! とても」

 弥生は、顔を赤くしながら頷いた。

 これほど嬉しくなるなんて。

 突然婚約を交わした久遠という男性に、弥生は急速に惹かれ始めていた。






「結婚…………?」

 梅は呆気にとられた。

 いつもは冷静な彼女も、人間の姿に変化した久遠と、彼と手を繋いで赤くなっている弥生を交互に見つめ、驚きの表情を抑えられなかった。

「なるほど、結婚! その手がありましたか!」

 星狩は、梅の隣で「うんうん」と頷いている。

 こんなにめでたい事は無い!

 梅は祝福を言葉にした。

「おめでとうございます」

「ありがとう」

「ありがとう。梅ちゃん」

 龍宮城へ連れて行き、久遠様と愛情あふれる結婚生活を送る事が叶えば、弥生は幸せになれるだろう。

 けれど。神々はどう出るか。

 鳳凰一族は高天原と人間世界を、一瞬で行き来できる。

 辺境で仕事をしている温和な星狩と違い、複数の神々が取るであろう傲慢な態度が、梅には想像出来てしまう。

 彼らの反対を、久遠はどう押し切るつもりなのだろう。

 最強神と対の存在であるクスコは、この結婚をどう思うだろうか。

「岩時の霊獣達にはまだ、伝えないでおきましょうか。弥生のファンが多数いるようですし」

 むくれた狛犬リョクが暴れ出す気がして、久遠は即座に頷いた。

 その時、弥生の表情や態度が急に変化した。

 梅と星狩、そして久遠が彼女に注目すると。

 慈愛に満ちた眼差しが返って来た。

「久遠よ」

 愛する弥生の体を使っているが、今話しているのは彼女ではない。

「弥生を愛しているのか」

「はい」

「大切な女性の体を借りて、済まぬのう」

「…………いえ」

 弥生に直接詫びて欲しいと、久遠は思った。

「ワシの器になれる人間はそうおらぬ。これは宿命じゃ」

 正も邪も包み込むのが、筒女神の器。

「全てはひっくり返る。久遠よ。何があっても弥生を信じ、守り抜くのじゃぞ」

「はい」

「一旦決めたなら、決して手放すでないぞ。見捨てたり、裏切ったりしてはならぬ」

「はい」

 何もかもを包み込むような微笑みを、クスコは浮かべている。

 そこへ、清名が飛んで来た。

『久遠ちゃん大変よ! すぐに空風輪へ来てちょうだい!』

「どうした、清名」

『説明は後! 早く!』







 森へ分け入り、清らかな水が湧き出る川を横切って進む。

 梅や星狩のほか、岩時の霊獣達も異変に気付き、彼らの後について来た。

 清名はどうやら、洞窟に行ける最短の隠しルートを見つけたらしい。

 ほどなくして久遠達は、斎主の岩戸へ到着した。

「開いて!」

 切羽詰まったカナレの声に呼応し、扉が開く。


 洞窟の中を、奥へ、奥へ…………



 しばらく歩くと、光がこぼれた。


 突き当りに張られた結界をカナレが剥がすと────



 皆の目の前には、岩時とあまり変わらない、空風輪の風景が広がった。

 広場の真ん中にあたる、岩時では舞台があるべき場所。

 その中央に、人間姿の風雅が立っていた。

「筒女神様、と……あなた様は」

 目が合うなり、風雅は七支刀を久遠の目の前に差し出した。

「この刀剣の、本当の持ち主では?」

 久遠は風雅から刀剣を受け取り、静かに頷く。

 触れあった瞬間、風雅は久遠の香りにピンときた。

「もしかして」

 あなた様は、あの白猫では?

「シッ。久遠、と申します」

 久遠は風雅に口止めをした。

 霊獣達に気づかれたくない。

 それにしても……何だ?

 この気配は?!

 何かの強い、生命力か?!

 久遠はすぐ近くで、とてつもなく大きな力が生まれているのを感じた。

『この気配を感じ取って、様子を見に来たんだけどね、あまりにも恐ろしくて…………』

 それで清名は、怖くなって助けを呼びに来たのだという。

 空風輪に住んでいた人間達は濁名に殺され、既に亡くなっている。

 惨状が生々しく残っており、今もなお、あちこちから血の匂いが漂っている。

 七支刀が大きな力に反応を示し、まぶしく光り輝いた。

 岩時神社の中央にあった、桜の木と同じものが空風輪にも存在する。

 化け物のように巨大な、『空風輪の桜』。

 人々の墓を作っていたらしき風雅は、木の近くで呟いた。

「……木のうろの中から、赤ん坊の泣き声が聞こえる」

 風雅に言われて恐る恐る皆が、中を覗き込むと。

 人の赤子に変化した白龍の赤ん坊が、うろの中に二十体以上いた。

「まあ………可愛らしい!」

「白龍の赤ん坊が、どうして……」

 みな白くて柔らかな布に包まれ、温かくされ、清潔を保たれている。

「……空風輪を今すぐ消去せねばなるまい」

 神妙な面持ちでクスコが言うので、久遠は尋ねた。

「何故ですか」

「空風輪の世界は濁名に食われ、狂ってしまいおった。心を自ら穢した濁名に傷つけられ、大きなバグが生まれたのじゃ」

「バグ?」

 久遠がさらに尋ねると、緊張した面持ちでクスコは説明した。

 世界とは、陰陽を司る巨大な一つの魂によって形成されている。

 空風輪もその一つ。

 ここにいる白龍の赤子達は、空風輪の魂に無理やり穴をあけてちぎり取り、新しく生誕した。

 この穴がバグじゃ。

 大きな傷口と同じ。

 次々と、血が湧き出るように赤子が生まれて来る!

 決して良い現象では無い。

 誰にも止められない。 

 塞いで治さねば化膿し、やがては大きな邪が生まれ、どんどん広がってしまう。

「このまま何体生まれても、この子らが空風輪で生き延びる事は不可能じゃ。誰一人として育つことが叶わない。全ての大人達が濁名に殺されている状態じゃからの。今生まれておる赤子らを全員、別な世界へ連れて行くしかあるまい」

 そして。

 一次的にでも良いからこの穴を、同じくらいの数ある魂で埋め、塞ぐ必要がある。

 この工程無くしては空風輪が元通りの形に戻らないため、全消去ができぬのじゃ。


「……何か聞こえる」


 祭囃子の笛の音。

 提灯と灯篭の輝き。

 人々の喧噪。

 屋台でもあるのか、食べ物の匂いがする。

 子供達の笑い声。

 亡者達の宴のようだ。

「残念じゃ。空風輪にはまだ、心の救いがあったというのに。岩時の大人達を、空風輪へ呼ぶ。……弥生を生贄に差し出そうとした、あの神職者たちが良いじゃろう。二十体の赤子の命と全て、入れ替える」

「そんな事、どうやって…………」

 クスコは弥生の体を使って、舞台があった場所で『筒女神の舞』を踊り始めた。

 久遠が愛するほんわかした弥生の表情は、どこにも見当たらない。

 今の彼女は、クスコだ。

 久遠は背筋がぞくっとするのを感じる。

「空風輪を消す?」

 クスコは微笑む。

 筒女神の舞は美しい。

 禍々しいくらいに。

 岩時と空風輪。

 二つの世界が今この瞬間だけ、一つになってゆく。

 空風輪の最後を見届けるかのように、風雅は久遠にこう言った。

「俺はずっと、空風輪を忘れない。この町の人が繋いだ心を、守ってゆく事を誓う」

 町長をはじめとする、弥生を差し出そうとした大人達が、空風輪の地に現れた。

「っ! ここは…………?!」

「どこです?!」

「神社が無い?! 返せ!! 元の世界へ返せ!」

 本能的に、恐怖を感じたのだろう。

 大人達は動揺し、泣き叫んでいる。

 赤子の様に。

「おぬしらは知っていたか。人間とはの……自身の願いを叶えるためではのうて、神々への感謝を伝えるために、祭りを行うのじゃ」

 人とは、感謝を知る生き物。

 与えられたら返す。

 その気持ちを忘れない。

 神々がとうに失った心を、人間はまだ、かろうじて持っておる。

 ワシはそう信じておる。

 忘れてしまったらもう、その生き物は『人間』では無くなってしまう。

 本能の赴くまま生きている、か弱くて馬鹿な、ただの動物じゃ。

 感謝を忘れた者達を、永遠に神が見つける事のない、この空風輪へ。

 おぬしらが、この地に住め。

 赤子たちの魂は、連れて行く。

 クスコは白龍の赤子の魂を全て、弥生の体の中へと吸い込んだ。

 久遠達の目の前から次々と、赤子が全て消えていく。


「弥生!」


 霊獣達を受け入れる比では無い。



 一瞬だった。



 久遠は目を見張り、風雅は目を逸らした。


 この光景から。



「空風輪、溶けよ」



「もう一体の最強神に、気づかれぬと良いのじゃが」




 空風輪は消えて、無くなった。



 岩時の中へ。