ふと見上げた空には、緑色の『龍の目』がフワフワと飛んでいる。

 懐かしくて優しい色。

 狂った濁名は、あれほど執着していた『大好きな清名』をもう、思い出せないでいる。

 ゆらり。

 濁名は変化した。

 燃えるような赤い目、黒に近い赤髪、黒い装束姿の美しい女へ。

 見た目だけでいい。

 美しくなりたい。

「お前……らが、悪い」

 私のものに、ナラナイから。

 受け入れてクレナイから。

 だから私は、ミタサレナイの。






 神体()に力が集まる。

 岩時祭り。

 かぐわしい香りがする。

 腹が減って、死にそう。


 ────もう死んだっていい。


 光る魂を食べられるなら。


 導かれるように、濁名は岩時神社の白い大鳥居の中へ、ふらふらと入っていった。

 後ろには、大きな桜並木。

 夏なのに、なぜか満開の桜。

 宿っている魂に圧倒される。

 強すぎる力。

 美し過ぎる景色。

 恐ろしくて触れたくない。

 触れるだけで傷つく。

 死ぬのは構わないけど痛みは嫌。

 行きたくない。

「……これ以上進みたくない」

 怖い。

 待っていたはずだ。

 この一年、ずっと。

 光る魂を食べたい。

 だから帰って来た。

 人間の不味い肉も魂も、数えきれないほど容赦なく食べた。

 たくさん潰し、たくさん辱め、たくさん穢し、たくさん貶めた。

 殺して、殺して、殺してやったが、弱すぎて、笑いしか起こらなかった。

「ふふ…………あは、あはははは!」

 なんと。下等動物のくせに人間は、言葉を喋るのである。

 話せば話すほど退屈で、気色悪くて吐き気が襲ってくる生き物だ。

 なのに人間ときたら!

 ほかの生き物よりも自分達の方が、はるかに優れていると思い込んでいる。

 神に依存し、すがってばかりいるくせに。

 だから魂が不味い。

 時を超えて未来まで行き、濁名は光る魂を探し回った。

 だが、そんなもの、どこにもありはしなかった。

 嘘つきめ。

 約束通り、一年後のこの時代へ帰って来た。

 光る魂を食べられ無かったら今度こそ、容赦はしない。

 浄化された人間の魂が、どれほど美味しいというの。

 それにしても静かだ。

 獅子も狛犬も見当たらないではないか。

 ────ん?

 あれは……。

  洞窟の中で見失い、とどめを刺し損なった、空風輪(クフリ)風雅(フウガ)

 黒龍だったくせに白龍化している。

 自分と逆だ。

 しかも人間に化けている。

 黒袴に紫色の浴衣。鋭い眼光で背の高い、なかなかのイケメンだ。

 奴は未来から来た男。

 生かしておくと、厄介だ。

 風雅は人間に化けて、舞台上に立つ筒女神をじっと見ている。

 彼の足下を見ると、白い猫が彼を見上げ、何かを訴えている。

 あれは猫じゃない………。

 正体は神だ。

 目的は?

 ────もう、どうでもいいか。

 馬鹿共の考えなど知ったことか。

 全てお前らが悪い。

 緑の玉の色だけが、どうしようもなく尊い。

 すごく大切だった気がする。

 ……大切なものなど、あったはず無いのに。

 神社の中央にある張り出し舞台の前まで、玉はフワフワ飛んでいく。

 濁名は舞台の上を見た。

 美しい女性がそこにいる。

「────筒女神?!」

 人間は生贄を差し出すと言った。

 約束が違うでは無いか。

 巫女装束を着た筒女神は、くるくると回りながら舞を踊っている。

 人間達は彼女に魅入られている。

 鳳凰の姿が刻まれた剣を、筒女神は勢いよく抜刀した。


天権(メグレズ)! アイト」


 時刈の剣が横一文字に、空を切る。

 濁名は一瞬、筒女神と目が合った。


 ────彼女は静かに笑っている。


 空気を切り裂き、槍を構えた獅子アイトが現れた。

 アイトは『時刈の剣』の中へと消えていった。






 白猫はにゃーにゃーと鳴き、何かを風雅(フウガ)に訴えかけている。

「どうした?」

 猫はこっちへ来い、と風雅を導くように歩き出した。

 本殿よりさらに奥へ、猫はどんどん進んで行く。

 ついて行くと、しめ縄で結界が張られた禁足地へたどり着いた。

 そこは岩時山の手前で、細長い小川がさらさらと上流から流れている。

 猫が鳴く方角……その小川のすぐ近くに、目的のものがあった。

 一本の、大きな剣。

 深々と、地面に突き刺さっている。

「これは…………」

 青白い光を放つ、純白の刀剣。

 剣身の脇に、六本の剣の枝が生えている。

 剣にしては奇妙な形だが、強大な力を感じる。

 風雅は渾身の力を振り絞って、その剣を両手で地面から引き抜いた。

 直感がこう言っている。

 筒女神にこの剣を渡せ、と。

 はっとして下を見ると、道案内の白猫は、既にいなくなっていた。









 筒女神は天権(メグレズ)の力で、霊獣アイトを自らの体内に呼び寄せた。

天璇(メラク)

 濁名が永遠に失った、白龍だけが持つ、守りの力。

 時刈の剣が、大きな天璇の(ほこ)へ変化する。

 まばゆい閃光が放たれる。

 白く透き通る勾玉形のバリアが岩時神社全体を包み込み、濁名の体を蝕んでゆく。

 濁名は、全身を切り裂かれるような痛みに叫び声を発した。

『イタイ! イタイッ!』

 黒龍化した報いだ。

 天璇の力は、もう濁名を守らない。

 力をどんどん削ぎ落としてゆく。

 苦しみが黄金色の鎖となって、縦横無尽に彼女の心を縛りつける。

 この隙に風雅は筒女神に近寄り、素早い仕草で七支刀を手渡した。

 筒女神の手におさまると、七支刀は嬉しそうに音を立てた。


 バチバチッ!


「お。こりゃ便利じゃのう!」

 天権(メグレズ)を唱えなくて良い。

 これで余計な力を使わずに済む。

 筒女神は七支刀を両手で構え、次の霊獣を召喚する。


「リョク」

 
 爆音と共に、飛刀を構えた狛犬リョクが現れた。

 リョクは色とりどりの七つの宝玉が輝く、筒女神の首飾りに姿を変えた。

 宝玉は目にもとまらぬ速さで次々と、七支刀の柄のくぼみにピッタリとはまってゆく。

「梅!」

 筒女神が七支刀を構えて念じると、黄金色に輝く鳳凰が姿を現した。

 みるみるうちに大きくなった鳳凰は、喉の奥から黄金色の炎を吐き出した。

 炎が濁名を包み込む。


 ────ギャーッ!!!


 体ごと焼かれ、濁名はたまらず人間の姿から、黒龍姿に変化した。


 筒女神は踊るように剣を振る。


玉衡(アリオト)


 慈愛の心と、慈悲の心。


 蔑みに満ちた濁名の心は、この力に打つ手が無い。


 玉衡(アリオト)は熱く、激しく、純粋で、濁名の魂を内側から容赦無く、焼き殺してゆく。


 筒女神は七支刀に念じる。


「キヌリ」


 牡鹿のキヌリが現れて弓矢を構え、無数の光の矢を一斉に放つ。

 矢は全て、濁名の心臓に命中した。


 ────ギャーッ!!!


 濁名は絶叫した。

「約束通り、光る魂をやったぞ。存分に食うが良い」

 筒女神の攻撃は終わらない。

 七支刀に念じる。


「ウバキ」


 現れた狐のウバキが、濁名の方角へ杖を向けて天璣(フェクダ)を放つ。

 濁名を包む光の渦が、視界を完全に奪う。

 筒女神は「開陽(ミザール)」を唱え、剣をブンッ! と振った。


 ────!!!


 濁名は叫べなかった。

 魂が肉体から離れて浮かび上がり、変化しながら真っ二つに分かれたからである。
 
 飛び出た二つの開陽(ミザール)は、白と黒の巨大な陰陽をかたどった龍に変化し、ぐるぐる回りながら追いかけ合う。

 だが。黒い方の龍は白い方の龍に飲み込まれ、空中であっけなく粉々に破裂した。

 筒女神は七支刀に念じた。

「カナレ」

 白蛇のカナレが現れ、濁名に白い杖を向ける。


揺光(アルカイド)!」


 癒しの力があたりを包む。


 濁名の粉々になった魂に揺光(アルカイド)が命中し、白い方の龍を残して跡形も無く気化し、消滅してゆく。


 良い香りがあたりに漂い、だんだん心が満たされてゆく。


 濁名は最後に、白龍の姿へ戻った。


 薄っすらと、今にも消えそうであるが…………


『どうして私は誰かから、温かさを、優しさを、奪ってしまったの?』

「満たされなかったからじゃろ」

 筒女神が濁名に答える。

 想いが溢れてゆく。

『どうして私は怒ってばかりいたの?』

「怒りが静まるまで、大人しくできなかったからじゃろ」

 涙がとめどなく溢れてくる。

『どうして私は拒絶してばかりいたの?』

「受け止め方を、考えなかったからじゃろ」

『世界はこんなにも温かく、優しく、包み込んでくれていたのに。どうして私は……幸せを感じなかったの』

「認めようとしなかったからじゃろ」

 おぬしは、あいつに似ておるのう。

 筒女神クスコは笑う。


 どうして? 

 清名っち。

 ああ、あなたをやっと思い出した。

 涙が溢れ出る。

 取り戻せなかったけれど。

 少しでも返さなきゃ。

「奪ったものを全て返すわ。魂も、肉体も、食らった物を全て…………」

 濁名はしくしくと泣いた。

 ごめんなさい、ごめんなさい、と繰り返しながら、彼女は消滅していく。

 謝って済むことでは無いけれど。

 潤った土や砂、緑が次々と蘇り、根がぐんぐんと上へ上へと飛び出し、植物が生えかわり、花が勢い良く開き出す。


 岩時の町は復活した。


 真っ白になった『龍の目』が一瞬だけ、フワフワと浮かび上がる。

 そして、ぱちん! と音を立てて消えていった。

 筒女神の表情が、普通の少女へと戻る。

 弥生が戻って来た。

 彼女はきょとんとしながら、あたりを見回している。

 白猫が、彼女の足元でごろごろと喉を鳴らしながら、嬉しそうにすり寄っている。

 空を見上げると、茜の魂が見えた。

 彼女は弥生に向かってにっこりと笑い、手を振っている。


『ずっと意地悪ばかりしてごめんね! やよちゃん』


 弥生にだけ聞こえる様にそう言って、茜は天に昇って行った。








 深名は顔を上げた。

 八神の一体に命じ、人間世界を部屋の壁面に映し出させていたのである。

「何だったのだ、今の光景は…………」

「岩時本祭りです」

「筒女神の舞か」

「うん。濁名が死んだね」

 時の神・爽が呟いた。

「…………そのようだな」

 深名は岩時の名を、いつまでも覚えられないだろうな、と爽は思う。

「あの女は誰だ。忌々しいクスコが器に選んだ人間は!」

「…………弥生、という名だそうです」

 八神の一体が答える。

「ヤヨイか、美しかった! 場所は覚えられ無くても、あの女の名は覚えられる!」

 爽は心の中でため息をついた。

 ………また、深名様の気まぐれが始まったか。


「人間のくせに、何という魂の力だ! 興味が湧いたぞ!」


 ワクワクと胸を躍らせた深名は、八神全員にこう命じた。



「無傷のままヤヨイを、高天原まで連れてこい」