森の奥へ進んで行くと、切り立った岩の間から湧水が染み出している。

 白蛇カナレはその湧き水をいつものように、持っていた盃に満たした。

 思わず微笑みが浮かぶ。

 霊水はびっくりするくらい澄んでおり、それでいてほんのり温かい。

 希望の温もりだ。

 洞窟へ戻ると、微かな匂いがする。

 霊獣達とは比較にならない、神の力をも感じる。

 もしかしたら恐るべき高天原の神々に、勘づかれたのかも知れない。

 カナレは激しい焦りと恐怖に襲われた。

 ────もし濁名に見つかれば、今度こそ風雅の命が危ない。

 一瞬でお終いになってしまう。

 洞窟は禁足地ではなくなっており、霊獣や人間の出入りが自由だ。

斎主(いわいぬし)の岩戸』という名だけが残り、何百年か経過している。

「開いて」

 カナレの声に合わせて岩と岩が同時に動き、音を立てずに左右に開く。

 さらに洞窟の奥へ進み、カナレは風雅の前で跪く。

 ここまではいつも通り。


風雅(フウガ)、どうぞ。霊水をお飲みください」


「ああ……ありがとう」


 手の中にある霊水を、風雅は一気に飲み干した。


 何も起こらない…………


「カナレ、今までのこと感謝する。俺はもう、空風輪(クフリ)に戻ろうと思う」


「命を救っていただき、ありがとうございました。あなた様にお会いできて、私はずっと幸せでした。…………風雅様」

 カナレの目から、一筋の涙が零れ落ちた。

「ですが。どうか最後まで、一緒にいさせてください…………」

「それは」

 その時。


 風雅の身に異変が起こった。


 微かな甘い匂いが、洞窟内に漂う。


「…………これは」


 風雅の体から、『黒』い鱗が一斉に、剥がれ落ちてゆく。


 パラパラ…………


 パラパラ…………


 パラパラ…………


 風雅は、美しい白龍に変化した。


 驚きのあまり、風雅は自分の全身を抱きしめた。


「────誰?」

 人の気配を感じてカナレが振り向くと、入り口の方角から巫女姿の女性が現れた。

 弥生の姿をしているが、彼女とは違う。


 慈愛に満ちた、心を震わすような神の声が聞こえてくる…………


「おぬし、空風輪(クフリ)の地を守る白龍じゃな。ようやく本来の姿を現したか」


 その声を聞いた途端、カナレの目から涙が溢れた。


 脱力して膝を折り、弥生を見て歓喜に震え、カナレは深々と一礼した。


「風雅。そしてカナレよ。よく頑張ったな」


「なーにバアさんみたいな声出してんだ? 弥生」

 気づくと洞窟の中には弥生の他に、鳳凰の梅、獅子アイト、狛犬リョクをはじめとする、岩時の霊獣達の姿が現れた。

 皆、笑顔を浮かべている。

「変化出来て良かったのう!」

「良かったのう! ってお前、バアさんかっつーの!」

 アイトが弥生にツッコミを入れる。

 老成した声色は明らかに、弥生のものとは違う。

 言葉遣いだけじゃなくて雰囲気も何やらおかしい、と梅は弥生を訝しんだ。

「…………あなた様は?」

 風雅の問いに、弥生は答えた。

「ワシか? ワシはクスコじゃ。ずっとそう呼ばれちょる」

 そう言うなり急に、クスコと名乗った女性は、普段の弥生と同じ表情に戻った。

「あれ?」

 側にいた梅は、その変化にも注目した。

「梅ちゃん。私、今…………」

「もしかしたら。弥生の体に一瞬だけ、筒女神が降臨したのかも知れません」

 祭りが始まると、その地には神のほかにも、あらゆる『魔』が入り込む。

 土地を守るために人間達は神の器を準備し、彼らを最大限受け入れるのが礼儀だ。

 岩時の霊水を毎日毎日、本殿の中で誰とも会わずに飲み続けた弥生も、自分が『器』の役割であることを、良く知っていた。

 そのための気枯れである。

 だが、祭りはまだ先のはず。

 本物の霊水を飲むようになってからというもの、燃えるような体全部で、おかしな力を感じていたが。

 弥生は今の出来事によって、頭の中がフラフラしている。

「体がおかしい。頭の中も、何だかヘンなの…………」

 自身の両手を見つめ、今にも溢れ出しそうな力を弥生は持て余している。

「もしかして、弥生は霊水を飲みすぎたのでは?」

 カナレに言われ、霊獣達は心配そうに彼女を見ながら頷く。

「何せ、毎日1リットル飲んでたからね、霊水を」

「1リットル? 多すぎます! 未知なる力を取り込むと、体を壊す恐れがあります。これからは盃一杯だけにするとよいでしょう」

 梅は弥生に謝った。

「何も知らず、大変申し訳ありません」

「大丈夫よ梅ちゃん! しばらくしたらこんな症状、治るわ。宵祭りが始まったらまた、クスコさんが現れてくれると思うから、それまでは大人しく、盃一杯の霊水を飲みながらしおらしく、気枯れになっておりますとも!」

 霊獣達はそんな弥生を見て、ホッとした様子で頷く。

「良かった。これでもう、心配はいらないな。濁名が来たらみんなの力を合わせて、やっつけてやればいい」

 よく見ると弥生の右手には、いつの間にか物騒な剣が握られていた。

 柄の中央に翼を広げた鳳凰が彫られた、時刈の剣である。

 弥生が両親から受け継いだ大切な剣だ。

「持って来た覚えないんだけどな」

 抜刀して横一直線に切る仕草をしてから、弥生は霊獣達に微笑んだ。

「…………!」

「これで、いつでも戦えるわ」

 弥生の喉から出たとは思えぬほど力強い声色に、梅や霊獣達は恐怖した。

 今までと何かが違う。

「…………弥生?」

 どんな強敵が襲って来ても、弥生がやっつけてしまいそうな迫力である。


 心強いとともに、何やら末恐ろしさを感じる霊獣達だった。









 カナレと風雅は洞窟を離れ、岩時神社の中へと足を踏み入れた。

 梅に誘われて社務所の中へ移動し、これまであった出来事を皆に話す。

「ひと月ほど前、私は空風輪(クフリ)という町に、薬草を入手しに行っていました。そこで濁名に襲われたのです。殺される寸前でした。そこへ偶然居合わせた風雅様に、命を助けていただきました」

「マジか…………大変だったんだな」

「はい。だから私も精一杯、恩返しがしとうございました」

 戦いは経験が無いため、アイト達の想像を絶する。

「ひと月以上神社に姿を見せなかったは、こういうわけだったのか………」

 言葉を詰まらせながら、アイトは呟いた。

 空風輪(クフリ)は黒龍側、白龍側関係なしに、誰でも足を運べる場所である。

 黒龍だったにも関わらず、卑怯なところは微塵も無く、風雅は誰に対しても大変優しく、心が強い。

 すっかり恋をしたカナレは、彼を死なせたくなかったのだという。

「カナレ。俺ら仲間だろ? 相談して欲しかったよ」

「アイト様…………ご心配をおかけして、申し訳ございません。白龍が守る地に、黒龍が立ち入る事は決して許されず、高天原の神々にばれたら即、死刑でしたから」

 皆様に迷惑がかかると思い、言えませんでした。

 こう言われると、アイト達はもう、何も言えない。

 息も絶え絶えで動けなかったはずの風雅が、白龍に変化したことにより生きる力を取り戻し始めている。

 これだけでも、奇跡のような出来事だ。

「命が助かって良かったな、風雅」

 カナレは霊水によって風雅が白龍に変化しそうだと、予測していたのだという。

「あの霊水の効力については、書物によってつい最近知りました。希望を捨てずいられたのは、そのおかげです」

 風雅を死なせなくて済むかもしれないという、一筋の希望。

「私はこの霊水を、もっとたくさんの方々の傷を治癒するために使いたいです。まだ適切な分量を、見極められておりませんが」

「…………すごく美味しいんだよね、それ」

「皆さんも飲んだのですか? 弥生だけじゃなく?」

 霊獣達は、にこにこ笑いながら頷いた。

 最近彼らがこの水を飲み始めていたことに、カナレは気づいていなかった。

 呆れたカナレも思わず笑う。

「空風輪はここから遠いのか?」

 アイトが尋ねると、風雅は弱々しい口調で答えた。

「本当のところはよくわからない…………あの洞窟の最奥が、空風輪に繋がってる。濁名に襲われ、俺だけがこっちに逃げて来てしまった」

「どこでも〇アみたいだな」

「アイトさん、僕たちが社務所でアニメ観てるの、ばらしちゃだめですよ」

 情けない───

「勝手に侵入し、霊水をもらい、禁忌も犯した。全てこちらが悪い」

 風雅は落ち込んでいるようだ。

「……お前はもう白龍だろ? 白龍は俺らの味方だ。傷が治るまでここにいろよ」

 そもそも最初から風雅を殺す気など、アイト達には無い。

「力が戻ったら、お前が大事にしていた空風輪を救いに行けばいい。その時は俺らも力を貸すぜ」


「…………ありがとう。恩に着る」


 張り詰めた糸が切れたかのように、風雅は目に涙を浮かべた。


「何度も死を覚悟した。まだ希望を持って良いのだろうか」


「当たり前だろ」


 アイト達は風雅の涙を見ると、はにかんだような笑顔を浮かべた。



「新しい友達が出来て、こっちも嬉しい」