「甘いよ」

「いや、味がしねぇぞ」

「温かいよね?」

「ううん、すごく冷たい。僕には少し……しょっぱく感じる」

「ねえ、梅ちゃん。どうしてみんな、霊水の味が違って感じるの?」

 梅は弥生の問いに答えた。

「この霊水は、飲んだ者の『開陽(ミザール)』に直接、触れるのです」

 何かを待つように、梅は全員の様子を注意深く見守っている。

「ミザール?」

「はい。開陽とは、あなた達の『魂の核』。陰と陽に分かれ、死にゆくまで回り続けます。その影響力は飲む者によって異なるため、味も温度も香りも全て、それぞれが違って感じるでしょう」

 あれ?

 弥生は突然、胸が熱くなるのを感じた。

 霊水が体の中で、熱く、熱く、熱く…………


 熱湯のように、さらに熱く…………


「────梅ちゃん。私…………どうなってしまうの」


「…………来ましたか?」

 梅に尋ねられても、弥生は返事が出来なかった。

 急激に瞼が重くなってくる。


「うめちゃ…………こわい」


「そのまましばらく、身を委ねて下さい。大丈夫ですから」


 弥生は、きっと自分は死んでしまうのだろう、と思った。

 霊水に毒が入っていたのかも。

「…………」

「一番最初は、ショックが大きいのです。あなたの根源に触れてしまうので」

「…………」

 色々な想いが突然心の中に沸き起こり、何もかもを焼き尽くす。


 岩時山から、巨大な火山が轟音と共に、勢いよく吹き上げる。

 熱い。

 叫びたくなるくらい。

 体の奥が、熱い。

 弥生はいつしか天空におり、岩時の町が下方に見えた。

 溶岩が今まさに、岩時の町を覆い尽くそうとしている。

 だが、町の人間達は誰も、その事に気づかない。

「……溶岩」

「弥生、溶岩が見えるのですか?」

 梅に問われ、弥生は頷く。

「うん。町を包んでる」

 涙が溢れ、声が震える。

 父も母も町長と岩時の大人達も、岩時の自然もみな、溶岩に包囲されている。

 それなのに彼らは、長い時間を棒に振りながら、醜い言い争いを繰り広げている。

 話しているのは、弥生を生贄として捧げるか否かについて。

 生贄に決まったのはお前の娘なのだから、潔く弥生の命を神に捧げよ。

 それが正しい。

 いや間違いだ。

 神に選ばれし者とは、なんと光栄なことか。

 大切な娘の命を決して、捧げるわけにはいかない。

 血迷ったか!

 ふざけるな!

 断じて、ない。

 弥生を捧げるなど。

 岩時の教えに反している。

 白龍が生贄を求めている。

 白龍は生贄など求めない。

 決して。

 全てが間違っている。

 認めない。

 認めるも認めないも無い。

 この地を守るために、大切な娘の命を捧げるのは、最も正しい事。

 恥を知れ。

 帰ってくれ。

 お願いだから捧げてくれ。

 頼む。

 弥生は渡さない。

 では私が、大切な娘の茜に名誉を与え、選ばれし者として神に捧げても良いのか。

 さすれば我々だけは、白龍神に守ってもらえるだろう。

 お前ら時刈(とがり)は死にゆく運命だ。

 誰も守ってはくれないだろう。

 神に土下座し、後悔しろ。

 死ぬ間際に。

 選択を間違えた自分を呪うがいい。

 話にならない。

 自ら娘を死なそうとするとは。

 感謝の気持ちも起こらない恐怖の対象に、大事な娘の命を捧げるとは。

 不死鳥の血を引く一族に向かって、何を馬鹿げたことを。

 我らは捧げない。

 誇りを守り抜く。





 お前らは醜い。





 混沌。










 もういい。








 もうやめて。

 弥生は叫んだ。

 この町は終わる。

 何もかもおしまい。


 怒りが抑えられない。


「言い争っている場合では無いわ!」


 溶岩が町を覆い、焼き尽くす。



「────争って何になるの?」



 これは弥生自身の怒り?


 地震が壊し始める。

 この地を。

 津波が襲って来る。

 怒りと共に。

 雷と嵐が容赦なく、町の人々の命を奪う。

 ああ、まただ。

 誰も抗えない。

 同じことの繰り返し。

 誰も彼もが死にゆく運命。

 弥生の目にはそう映る。


 気づいてよ。


 殺し合っている場合?


 私たちは何をするべき?


 醜い正論を振りかざし、生贄を選んでいる暇など、一瞬だって無いわ。


 しっかりと前を向いて、ただひたすらに、無我夢中で、生きるしかない。


 この世に生を受けたのよ?


 与えられたものに感謝し、前へ前へと突き進むしかない。


「生贄にだって何だって、なってやるわ。それが私で良いのなら」


 もう、うんざり。


 そう思った瞬間。


 弥生の目の前に、一体の巨大な白龍が姿を現した。


 成人したばかりの白龍。


 美しい。


 細長い尾をぴんと伸ばし。


 大きな翼と髭を持ち。


 天空に弧を描き、この世界へと舞い降りる。



 白龍はこの世を愛してくれている。



 弥生はそれを強く感じ取った。


 これは未来?


 全てが輝いて見える。


 白龍は口を開け、尊くて冷たい、氷を含んだ風を放つ。


 岩時の自然を守るように。


 その風が包みこむ。


 熱い溶岩を冷ます。


 白龍の冷気が諭す。


 溶岩を、炎を消し去る。


 たった一瞬で。


 あっと言う間に。


 弥生の中で沸き起こった怒りと混乱が、急に静まる。


 何と自分は、白龍の霊力にすっかり魅せられ、清められてしまった。


 弥生はその白龍に教えられた。


 心の闇を自らの力で払い、清めて静めろと。


 混沌を裁くのは秩序。


 冷静であり続ける強さを持て。


 ただ向こう見ずに、命を無駄にする生き方をしてはいけない。


 自暴自棄になってはいけない。


 絶望してはいけない。


 死を迎えるその瞬間まで。

 
 弥生は白龍の想いを受け止めた。


 一度でも投げやりになってしまった事が、急に恥ずかしくなる。


 だったら自分は、一体何を、どうすれば良いのだろう?









 いつも通り。

 白蛇のカナレは誰にも見つからないよう、霊水が湧き出る場所に近寄った。

 彼女は白い着物の黒髪少女に化けており、どこからどう見ても人間である。

「あら…………」

 結界が剥がされている。

 今回は岩の神の紋章を描き、より強固にしたというのに。

「どこかに結界を剥がせるような、強い霊獣でもいるのかしら」

 心がざわつく。

 素早く器に水を注ぎ、いつも通り結界を張り直す。

 気のせいよね。

 これで誰にもこの場所は、見つからないはず。

 他の人間や霊獣達に見つかったら、終わりである。

 この霊水の存在だけは、誰にも知られてはならない。

 ここに、こんな力が眠っている事がバレれば、狙われるに違いない。

 高天原に住む化け物たちに。

 ()は見つかってしまい、殺されてしまうだろう。

「開いて」

 声に合わせ、岩と岩が同時に動き、音を立てずに左右に開く。

 カナレは岩を操るのが得意だ。

 人ひとり入れるくらいの大きさに洞窟の扉が開くと、彼女はそっと中へ入り、扉を閉めた。

 自分の後をつけている霊獣がいたことには、全く気づかずに。

風雅(フウガ)、霊水をお持ち致しました」

 洞窟の奥に現れたのは、黒龍。

 白龍が守る地に、黒龍が入る事は許されない。

 だが。

 濁名(ダナ)に体じゅう傷つけられて、風雅は今、動けない。

 このままでは、彼はこの地から去ることすら出来ない。

 今にも死にそうなのだから。

 医師であるカナレは、自分の命を救ってくれた彼を放ってはおけなかった。

「…………いつもすまない」

「いえ。お加減は?」

「悪くない。どうした?」

 カナレの様子が変だ。

 風雅はそれを見抜いた。

「…………いえ」

 この場所が、見つかるかも知れません。

 そんなことを言い出せば、風雅は自分の目の前から、そっと姿を消してしまう。

 カナレはまだ風雅の怪我の状態が思わしくないことを、良く知っていた。

 峠を越えたばかりだ。

 もう一度高熱を出せば、今度こそ風雅は命を落としてしまうかもしれない。

 だから今、カナレは風雅に無理をして動いて欲しくなかった。

「うまい」

「効果はありそうですか?」

「ああ。まさかこの霊水に、癒しの効果があるとはな。俺はあともう少しで動けそうだ。色々と世話になったな」

「いえ。命を助けていただいたのです。このくらい当然です」

 濁名の魔手から。


 命がけで。


「風雅様を守れるなら、私は黄泉に堕とされようと構いません」



 カナレは熱のこもった目で、風雅をじっと見つめていた。