昨日から頭の中はそのことでいっぱいだ。

カップルのキス現場に遭遇し、女性がこちらを見た瞬間、蒼大が私を抱きしめてきた。目の前を温かな壁で塞がれて、何が起こったのかわからなかった。

頭の後ろと腰の辺りに触れているのが彼の手で目の前にあるのは彼の胸だと認識出来ても、なぜこのような状況になっているのかを理解することは難しかった。───正確には思考が停止していて、とてもじゃないが理解しようなんて思えなかった。

顔が胸に押し付けられて苦しいし、彼の速い鼓動が伝わってきて自分の鼓動もそれに追い立てられるようにどんどん加速してさらに苦しかった。その速くて強い鼓動が体全体に伝わり、全身が心臓になったかのようにドキドキする。

かなり長い時間そうしているように感じたが、人が動く気配がして、私達の横を通り過ぎる時にくすっとしたそよ風のようなかすかな笑い声が漏れたのがわかった。

カップルがいなくなったのだろうと思ったけれど、私達は抱き合ったまま魔法で石にされてしまったみたいに密着したままだった。

「あっ!!ごめん!!」

蒼大が言ってパッと離れた。視界が明るくなり息苦しさもなくなった。

「・・・ううん。でも、何で・・・?」

「その、気まずいかと思って・・・深い意味ないから。」

その言葉を聞いて胸がズキッと傷んだ。

その痛みは私が彼に惹かれていることを自覚するには充分なくらい確かな存在感を持っていた。




それからはまた順路通りに魚や亀、蟹などを見て、アシカショーが始まるというアナウンスがあったのでショーを見て、ギフトショップでそれぞれ家族へのお土産を買ってから水族館を出た。

ちょうどお昼時だったので、外にたくさん並んだ屋台でアメリカンドッグやカーネリングポテト、焼きそばやタコ焼きなどジャンクな食べ物を買ってランチにした。

その間も私の気持ちは沈んだままだった。頭の中でさっきの彼の言葉が何度もリピート再生される。

その後は岩場から海を眺めた。『砂浜があったらよかったね。そしたら足だけ入りたかった。』と言ってみたら『まだまだ季節じゃないからな。』と返ってきてなんだか寂しかった。夏になる頃にはもう私達は一緒にいないんだろう。

───深い意味は、ないんだもんね。

そう、私達は高校生活で作りそびれた思い出を作る為だけの・・・3月31日まで限定の関係なんだ。クーポンだって3月31日が有効期限なの多いもんね。きっとそれと一緒なんだ・・・だからあんまり彼に入れ込んでしまってはいけない。

大学に入ったら、クラスとかサークルとかバイトとかでたくさんの出逢いがある。その中で蒼大は私のことなんてすぐに忘れてしまうだろう。彼が何かの機会で高3の3月を思い出す時、『そう言えばあの時一緒に過ごした人いたな。』と思うくらいで、私の顔や声の記憶もきっと段々薄れていく。今は瑞々しい胸の中の気持ちも、色褪せてアンティークになって戸棚の奥にしまわれてしまう。

だから・・・だから、もうこれ以上彼に惹かれてはいけない。好きになってしまってもつらいだけ。今ならまだ引き返せる。

もう会うのをやめたいと伝えようか・・・でも、やっぱり会いたい。顔が見たい。声が聴きたい。言葉を交わしたい。他人に対してこんなに強い気持ちを抱いたのは初めてだ。すごく苦しい。痛い。どうしたらいいのかわからない。私はなんて無力なんだろう。

自分のこの気持ちを一体どう処理したらいいのか。そしてその為にはどのように考えてどんな行動をとったらいいのか。

問題集みたいに模範解答とそれを導き出すための解説があればいいのにと思った。

部屋の隅を見るとビニール紐で結んだ教科書や参考書、過去問が高く積まれていた。そのどこにも今私が解かなければならない問題の答えは載っていない。

明日は資源ゴミの日なので、今日は部屋を掃除して受験生らしいものや高校生らしいもの───制服や体操服、それからカバンくらいだが───を整理した。全て処分するのは少しもったいない気もしたが、部屋は妹と共有で狭いので使わないものは廃棄しないといけない。

学習机の本棚もガランとしている。4月まであと約二週間。大学に入ったらここに新しい教科書やノートが並ぶ。ワクワクする新しい始まりのはずなのに気持ちが重い。カレンダーをめくりたくない気持ちでいっぱいになっていた。