彼は椅子に腰を下ろし、こちらを見ずに「十時過ぎに出る」とだけ言った。

時計を見ると、まだ十五分ほどあったので急いで洗面所で簡単にメイクをする。

今日は少し山を歩くと言っていたけれど、持ってきた靴は自分のローヒールパンプス一足だけ。

ローヒールだからなんとかなるかとは思ったけれど、彼のカジュアルな恰好からもできるだけ身軽でいった方がいいような気がして、彼の家から借りてきたベージュの綿パンツとブルーのシャツを着た。その上から自分の紺色のテーラードジャケットを羽織る。

「スニーカーはさすがにもってきてないよな」

「そうですね。まさか、山を歩くなんて想定外だったので」

「滑るかもしれないから気を付けていけよ」

「はい」

って、どんな急な山を行くわけ?

だって日本酒の酒蔵?は山の麓でしょう?

「あと、山は冷えるかもしれないからストールも持っていった方がいい」

さすが用意周到の彼だ。

でも、そこまで気の回らない私には彼からのアドバイスはかなり助かる。

私は自分のストールをバッグに詰め込み彼の後に続いて部屋の外に出た。

晴れ渡った青い空に北アルプスの白い山脈が美しく映える。

山際まではタクシーを使い、そこから酒蔵がある場所までは徒歩らしい。

彼の地図を頼りに、エメラルドグリーンの美しい湖を見ながら山の麓にある目的地を目指す。

トレッキングに向かう人々とあいさつを交わしながら、山の奥に入っていった。