夜の蝶

#別れ#

仕事を辞めることはないけれど、社長との関係は終わらせないといけない。

このままだと、一番大切な豊を失ってしまう。

だけれど、社長の事も好き。

どうして私はこんなに欲張ってしまうの…

自分が心の底から腹立たしい…

落ち着いて1人で考え込んだ結果、社長に別れを告げることを決断する。

会議が終わり、重い足取りで社長室へと向かう。

コンコンッ…

「失礼いたします」

「ゆう、会議お疲れ様。予定より長引いたね?」

いつも以上に笑顔がゆったりと優しく感じる。

「坂本社長と遠藤社長の意見が対立してしまいまして…」

今の私は会議の事などどうでもいい…

私の話を…

無意識に私は、もの言いたげな顔をしてしまっていた。

社長に感情を見抜かれる。

「俺に他に伝えることが?」

「えーと…。回りくどいのは社長お嫌いですから、単刀直入に申し上げます」

かしこまる私を見て瞬時に何かを察した社長は身構えた。

「旦那を失いたくないので、社長との関係は終わりにしたいです」

覚悟はしていたものの、不意にきゅっと胸を絞ったように悲しみが沸いてきた。

それを聞いた社長は、一言ボソッと…

「社長か…」

悲しいようなやるせないような表情を見せた。

返答は…

「分かった」のみの一言だった。

社長は今何を思っているの?いつかはこうなると覚悟してた?

社長の本心を聞いたら心が折れそうで。

だからその一言だけが私にとっても都合の良い返事だった。

そして翌日になり、

「岩崎さん、今日は15時から会議だったよね?」

え…!い、岩崎さん…か…

それはそうだよね…

もう二度と“ゆう”と呼ばれることはないのか…。そしてもう二度と“龍さん”と呼ぶこともないのかもしれない。

「岩崎さん?」

「っえ!あ、はい。会議は15時からです」

社長と一番近くで仕事が出来ていることには変わりないけれど、いいようのない寂しさに閉ざされる。

当然の事だが特別感が一気に消えた。

次第に仕事にもなかなか集中が出来なくなっていき、退職まで考えるようになった。

そんな私の気持ちをよそに、「岩崎さんとこれからも良きパートナーとして会社を成功させたいから秘書は続けてほしい」

なんでそんなこと言うの…

いっそのこと突き放してよ…

秘書として認めてくれているのだから余計な気持ちは放り出して仕事に専念したいのに。

社長と別れてから自分でも分かるくらいに笑顔が減った。

拭えない喪失感。

そのため豊に優しくされても冷淡な態度をとることしか出来なかった。

こんなにも心優しい豊をどこまで悲しませるのだろうか…

「おかえりっ」

笑顔で迎えてくれる豊。

「…うん。ただいま」

「今日も元気ないね?最近忙しいの?」

「別にそんなことないけど…明日も早いからもう寝るね」

今は豊にさえ気を配る余裕がなかった。

理想だった結婚生活なのに、私の方から夫婦崩壊に導いていた。

翌日の出勤途中、背後から誰かに頭を撫でられ私は振り返る。

「岩崎さん、おはよう。ボーッとしてたら危ないよ」

心臓が破裂しそうなほどのときめきを感じる。

しゃ…社長…

やめて…今の私に優しくしないでよ…

社長はどうしてそんな余裕でいられるの…

私は俯くと涙ぐみそうになり唇を噛みしめる。

「ごめんね…触られたくないよな」

違う、違うの…

本当は嬉しいんだよ…

「優しくしないで…」

「俺には優しくすることも許されないのか?だったらいっそのこと俺を嫌いだと言えよっ」

怒りと苛立ちを含んだ声。出会ってから初めて見た社長の姿…

違う…社長のそんな顔を見たいわけじゃない…

我に返る社長。

「ゆう…ごめん…俺…」

今、ゆう…って

社長も余裕なんかじゃないんだ。

「ごめんなさい。先に会社向かいますね」

私は申し訳ない気持ちと歯がゆさでその場を後にする。

そして社長と別れてから半年が経った。

未練が糸を引いて切れない。もどかしいくらいにまだ心は癒えずにいた。

社長の顔を見れば仕事どころではなくなってしまう。

別れた当初は案外落ち着いていた時もあったのに。

不倫関係で良い距離感を保ててると思っていたけれど、それは違ったみたい。

そんなものは理性がうまく働く人で、心はずっと近付きたいと嘆いている。

豊以上に好きになってしまっていたんだ。

ふとした時に顔が悲しげに曇る社長。

社長もどこかでは引きずっているのかな…と抱き締めたくなる。

それが今では出来ない。

私から別れを告げたのに未練がましい自分がとことん嫌になる。

中途半端なことは出来ない…これで良かったんだ。

そう何度も自分に言い聞かせた。

社長に言い寄ってくる女性はごまんといる。

私なんて比にならないくらい素敵な女性が大半の職場。

“社長に用事があるときは必ず秘書を通してからではないと受け入れない”

これが会社の方針。

そのため私を仲介役にして「社長の連絡先教えて」とお願いしてくる女性社員も沢山いる。

その度に身を裂くような思いになるが、私を頼ってくれている女性社員の気持ちも大事にしたい。

女性社員の気持ちを有りのままに社長に告げると、社長の反応は変わらずどれも同じだった。

誰が見ても美しく品のある女性からのお誘いでも必ずお断りをしている。

それも私を通して。

私からその女性社員にお断りの言葉を掛けると、「本当に社長に伝えてくれたの?」などと言われることも多くあった。

自分に自信のある女性は何度も何度もお願いしてきた。

社長の取り合いみたいな感じで心が休まることはなかった。

これは私と社長が恋人関係だった頃も良くあったけれど、その時は社長が近くの存在であったために優越感に浸っていた。

でも今は違う。

不思議な寂しさに包まれた。

社長の心の片隅に少しでもいいから私がいてほしい。

自分勝手にそう願ってしまう。

仲介役に嫌気がさし「自分で断ってください」と社長に言い放ったこともある。

それでも社長は「岩崎さんから断ってくれ」と言い引き下がらない。

どうしてそんな事まで私に頼むの…

卑怯で意地悪な社長が憎い…

これも仕事の一環なのかと耐えるしかなかった。

理不尽にもその苛立ちを豊に当ててしまっていた。