「うい」

 少しずつ夏に向かっているとはいえ、季節はまだ春。連れられるがまま訪れた中庭で、濡れ鼠になった私の体をさらう風の冷たさに俯いて身を震わせていると、先輩が私の顔面にタオルを投げた。

「…これ」

「心配ご無用。昨日体育ん時一年の女子が貸してくれたタオル。(未使用)」

 返すの忘れてた、とか言ってそっぽを向いて後頭部を掻く先輩。どこかで聞いた話に、すぐ予想がついた。

 腕にお湯をかけられる報復を受けてまで振り絞った女子の勇気、それがこんな形で水の泡になるのは余りにも酷だ。せめてこの際あの男の体液であらば何でもいい、鼻水でもよだれでも付けて返してあげれば———…いや、もういいや。

 頭では一瞬思っても、誰かのことを気遣う余裕は私にももうなかった。それくらい自分が震えていて、その震えが寒さだけではないことに気がつくのが嫌だったのだ。


「………すみませんでした」

「んー?」

「さっきの、あれ」


 涙も止まり、落ち着いてから我に返るととんでもないことをしたことに気付く。
 ばつが悪すぎて合わす顔もない、とタオルを当てたまま俯向く私に、先輩は振り向いてあぁ、と声を上げる。


「そーだよ。気持ち悪いだってー、あれはさすがに傷付いたね」

「ごめんなさい…でも、あれは先輩のことを言ってるんじゃなくて」

「わかってるよ」

 被せて言うと、先輩は優しく笑う。

「なんかおかしいと思ったんだ。オズちゃん嘘下手くそだし」

「な、」

「何が水溜りに突っ込んだ、だ
 ここ一週間雨なんかめっきり降ってない」

「…」

「…いや、そんなこと言って結局事後に助けに来てたんじゃ知らなかったも同然だな
 …ごめん、気付いてやれなくて」


 静かな低い声が、視線を伏せて小さく言葉を落とす。先輩の身長は知らないが、ざっと見ても私とは20㎝は差があるだろう。そんな相手が俯いたら私にとっては、かえって顔がよく見える状態になってしまう。
 加えていつも前髪を上げている彼だ。下から見上げると、切なげな瞳が揺れていて。胸が、きゅうと縮んだ。


「気付いてたじゃないですか」

「え?」

「正直、お母さんの手料理には劣ります。
 でも、私にとってはからあげと卵焼き。最強のタッグでした」

「なんだそれ」


 真顔で言う私に先輩は一度目を丸くすると、眉を下げたまま、白い歯を見せて笑った。