ドスの利いた声で突然顔上げないでほしい。いいから、と靴紐をくくるよう(うなが)すと、彼はチッと舌打ちをした。
 
「あいつ変なことしなかったろうな」
「しませんよ。先輩じゃあるまいし」
「まぁそうだな」
 
 っておい。とノリツッコミの動作を繰り出してから、靴を履いた先輩が立ち上がる。何度かその場で足踏みしてもサイズはピッタリみたいで、彼は足元を見たまま端正な顔を綻ばせた。
 
 
「…嬉しいよ。ありがとう」
 
 

——————このことは、あいつのために誰にも言わないで
 

 
『お願い』
 
 あの日。藤堂先輩のプレゼントを買いに付き添ってもらった日、震える声を振り絞って頭を下げる智也先輩に、私はきつく自分の唇を噛み締め た。
 
《…情けないです》
《え?》
 
《…私、全然先輩の異変に気が付けなかった。…そんな風に見えなかった》
 
 
 ずっとそばにいたのに。
 
 
 記憶の糸を手繰(たぐ)り寄せたあと、今目の前にいる先輩をぼんやりと見上げる。
 
 この人はいま、どれくらいの濃度で存在しているんだろう。
 なにも見つけられなくなるくらい失って、切り捨てて、笑って。どこからどこまでが本当の姿なの?

 く、と眉間に皺が寄ったのを、多分目があった途中で気づかれた。少しだけ動揺の色を灯す瞳からぱっと逃れるために顔を逸らす。

「…私、午後1…体育だったの忘れてた、行かなきゃ」
「え、おい」
 
 失礼します、と地面に向かって頭を下げると、後ずさって先輩の顔は見ないまま背を向ける。ぽつりとその場に取り残された先輩の声が、それ以上私を呼ぶことはなかった。
 
 






 
「おかえり」
 

 午後1番、5限目の授業はスライド学習だそうだ。黒板に書かれた「視聴覚室に移動」の文字に(なら)い、クラスメイトの多くはちらほらと教室を後にしている。
 親友のお出迎えをした智也にジト目をくれると、藤堂はつれない態度で紙袋を自分の席の足元に置いた。

「ぜーんぜん気付かなかったよ。お前がオズちゃんと逢い引きしてたなんてな、こうして不倫は人知れず成立していくんでしょうね」
 
 拗ねた様子で言ってのける藤堂に智也は深く短いため息をつく。
 
「先週の土曜にちょっとね。おれが藤堂といるとこ見かけたんだよ彼女、それでおれが誘っt」
「お前から誘ったの? へー智也くんったら時々ごくまれにちょっとだけ積極的」

「でも結果的に必要なものだし良かったじゃん。小津さんも手応え感じてたし、得意げだったんじゃないの」