「よく眠れたか」

「そこそこ…じゃなくてその前に髪どうなってんですかそれ」

「いやせめて少しでも誠実な青年気取ってみようと思ってさ、七三分けと無造作で迷って悩むこと15分経ったんだけどオズちゃんどっちがいいと思う?」

「とりあえず七三分けはやめた方がいいと思う」












(…結局おろすのかよ)

 朝は先輩お手製の朝ごはんを頂いて(至れり尽くせりだ)、洗濯乾燥機に入れてもらったお陰ですっかり乾いた服に着替えて外に出た。

 8月中旬、夏真っ盛りでも早朝だと肌をさらう風がまだ少しだけ冷たくて。ランニングをしている女の人が先輩を見て明らかに暑さ以外の原因で頰を赤らめようものなら、彼は持ち前の女たらしを炸裂させて爽やかに挨拶をかわした。

 少しでも好青年を気取るためと、結局昨晩同様、いや挨拶仕様(・・・・)で軽く整えられた先輩の髪は、殺傷能力が高い。少し頰を膨らませて隣の先輩をじっと見上げると、ん? と笑顔で気付かれた。


「何?」

「…あの、髪。あげてもらえませんか」

「え、なんで?」

「知らない人みたいで、慣れない。…落ち着かない」


 不貞腐(ふてくさ)れるように口に出してから、我に返る。いやだって事実だしいつも前髪上げてるのでイメージ固まってたから!


「見てくれだけの話だろ。俺は俺だよ」

 夏風に身を(ゆだ)ねるように、焦げ茶色の瞳が長い睫毛を添えて、ゆったりと瞬く。

 先輩の家から私の家までは、歩いてそう時間がかからなかった。事実住宅地に入るとすぐに見慣れた屋根が目に付いて、無意識に立ち止まる。


「緊張してる?」

「…たぶん。心臓、すごい鳴ってる」
「どれ。確かめてあげ」
「また殴りますよ」

 それは嫌だ…とそろりと手を引っ込める先輩に、少しだけ笑って遠くを見る。

「今まで、家出とかしたことなかったんです。だって必要なかったし、考えたこともなかった。どんな反応されるんだろう。怒るかな、悲しむかな。それとも無反応?」


「全部だよ。全部ひっくるめて、きっと笑ってくれる」



 きみの家族は、大丈夫。


 住宅地へ降りる階段を先に二段ほど降りた先輩が、振り返り、私を見上げて笑う。そして手を差し伸べられた。私は迷う。先輩も、きっと賭けに出たのだと思う。

 でも、もう。怖くはなかった。それよりずっと、この手に触れたいという思いの方が上回っていた。
 返事の代わりにゆっくりと頷いて、私たちの頬を撫でる風に、背中を押すようなそれに、


 私は踏み出して、先輩の手のひらに自分の手を、重ねる。