「おい飯だってよ」


 近所の公園。西陽が遊具に長い影を作ったころ、私はその声に顔を上げる。

 「栄介くんは試験期間中だから遊びに行くのはやめておけ」という母と言い合いになり、家を飛び出して行き着いたジャングルジムの上。そこは見晴らしがよく、エイにぃのことも上から見下ろせる。
 泣き腫らした目は悟られないように。顎を引いて控えめに身を乗り出した。


「お前が帰って来ねーと俺がいつまでも飯にありつけねーだろうが」
「い、…っ犬がいる」
「犬?」

 エイにぃは怪訝そうに眉を(しか)めると、辺りを軽く見渡す。

「いねーよ」
「いた! さっきずっとジャングルジムの下でぐるぐる回ってた」
「だったら今のうちに降りてこい」

 下で手を広げるエイにぃを見て、ぎゅっと生唾を飲み込む。待ち望んだ存在が迎えに来てくれた喜びと得体の知れない動物への恐怖がない交ぜになって、結局私は躊躇した。後になって思えばこのとき、迷わなければよかったと思う。
 だって迷わずにあの手にすぐに飛び込んでいれば、あの手を掴んで二人で走っていればもしかしたら、

 エイにぃは。


「——————エイにぃ!」


 それは一瞬の出来事だった。公園の隅から突然飛び出して来た犬がエイにぃの横っ面に喰らい付いたとわかった途端、私も我を忘れて犬に飛びかかったのを覚えてる。
 怯んできゅんきゅん声を上げる犬を払いのけて、大粒の涙を流して、地面に倒れ込んだエイにぃに呼びかける。

 噛み付かれた左耳は血で真っ赤に染まっていて、虚ろな瞳がゆったりと瞬いて、私を見た。


「エイにぃ、エイにぃ!!」 

「…聞こえてる。救急車呼んでくれる耳取れそうなんだけど」
「死んじゃやだ!!!」
「……あほか、おまえ」

 人はそんな簡単なことで死なん。


 あのとき、朦朧とした意識の中で、虚ろな瞳に。大粒の涙を流す私の姿はきっと全部見透かされていた。

 その日公園を徘徊していた犬はご近所でも頻繁に粗相を仕出かすことで有名なおじいさんの飼い犬で、最後には警察に捕獲されて、おじいさんはそれを機にこれまでの失態ごとこっ酷くお叱りを受けて。肝心のエイにぃはといえば左耳を10針も縫う大怪我を負った。

 色素の薄い茶色の、横髪で隠れた耳の下。稲妻のような傷の理由を知っているのは、私と、多分極少数。