『どうしてうちにはお父さんがいないの?』



 どうにもならないことがある。もう少し背が伸びたら、靴のサイズが上がったら、成績が上がったら。大人になったら教えてあげるねと、母は尋ねるたび僕にいつもそんな常套句(じょうとうく)を掲げた。
 僕はそれに納得していたし、大きくなったら、成績が上がったら。そのとき母から知らされる真実は何故か特別な何かなんじゃないかと都合良く解釈していて。


『お前んちのかーちゃん〝みずしょーばい〟してんだろ』
『あまのがわと喋ったらダメだってお母さんが』
『あっちいって』


 女手一つで僕を育てるために母がなりふり構わず選んだ仕事の名前を、僕はよく知らなかったけれど。それでも子どもながらに模索していた。飛ばされる野次に、理解の得られない理不尽に対抗出来なくても。歯をくいしばることは出来る。泣いたっていい。堪えられる。それで母さんが幸せになれるのなら。

 でも本音を言うと必死だった。苦しかった。辛かった。
 本当のことが知りたかった。


 結局真偽は曖昧なまま、母さんはいつの間にか再婚することを決めて、引っ越しをして、新しい環境下で、世界は180度変わった。肺に吸い込んだ空気の美味しさにバカみたいに生きてるなんて感じた。肩身の狭さはもうない。でも蟠《わだかま》りが1つ。


『どうして、うちには父さんがいないの』


 中途半端に大人にもなりきれないままやりきれない心を(くすぶ)った末に、僕は新しい父を見送った朝、これっきりの覚悟で背中越しの母に尋ねた。いつも通り返事を待たずに歩き出すと『逃げられちゃった』と告げられた。


大河(たいが)とお母さん残して、いなくなっちゃった』
『…全部母さんが悪いんじゃん』


 あんたのせいで散々だった。思いも寄らない形で罵倒されて(けな)されて、事の発端はいつだって母さんにあった。身に覚えのない有る事無い事ぶつけられて、僕はいつだって他人の()け口で生きたゴミ箱みたいだった。

『今さらやり直せるだなんて虫が良すぎる』
『うん』
『何も知らないみたいに笑うな』
『そうだね』

『僕は、』


 違った。そんなの全部うそだった。

 僕が蔵馬(くらま)にいじめられたのは僕が弱かったからだ。凛花(りんか)ちゃんの前に出なかったのは傷つくのが怖かったからだ。守れなかったくせに変われたくせに、変わろうともせずに世界の全部敵に回して怯えていた。


『ごめんね大河』


 それなのに母さんを傷つけた。
 ごめんね、って言って、僕を泣きながら抱きしめた。弱いのは僕だ。強くならなかったのはこの僕だ。

 こんな、情けなくて変わりたくても変われない臆病で卑怯者でもそれでも一度、一度だけでいいから、


 この手で誰かを、守り遂げてみたかった。