ひとまず雫を自分のテリトリーに引き入れる事は成功した。

 緊張した面持ちでコーヒーを飲む雫を眺めながら思わず顔が緩む。

 今までこなしてきたどんな大きな商談や難しい交渉より緊張した。羽野奏汰は心の中で安堵のため息をつく。

 当初一緒に暮らすなんてとんでもないと慌てる雫を何とかうまく誘導し、同居もOKさせた。
 さすがに賢い彼女だ。納得させるため、それらしい言葉を並べるのに少々苦労が必要だったが。

 早くこの家でリラックスして過ごせるようになってほしい。

 もう彼女のアパートに帰りたいなんて思わないほどに。


 最初に雫の存在を認識したのは、彼女が入社研修を終えてしばらくした頃、海外営業部に所属していた奏汰が経営戦略部に立ち寄った時だった。



 やけに姿勢が良い女性がいるな、と思った。

 デスクワークを続けていると疲れてしまい、どうしても猫背になってしまったり、長時間姿勢を保つのは難しいが、彼女は背筋をすっと伸ばしまっすぐパソコンに向かっている。

 そして、表情ひとつ変えずブラインドタッチでキーボードを操作するあまりの速さに驚いた。

 長めの黒髪を後ろ一つにまとめ、華奢な体をモノトーンの服装で覆っている。色が白く黒目がちで落ち着いた印象だ。

 部長に聞くと彼女は安藤雫という新入社員でそのパソコンスキルは新人離れしていて、重宝がられているらしかった。

 仕事の速さと正確さが抜きんでている一方、人付き合いが苦手なのか、目立つことを嫌い、同僚とあまりコミュニケーションを取ろうとせず、あまり表情を変えない事から『アンドロイドの安藤さん』という異名を持つことも知った。

 以来、何度も居室で彼女を見かけたが、必ず最初見たときと同じ姿勢で同じようにパソコンに向かっていた。いつもだ。疲れないのだろうか。実はこの姿がアンドロイドと言われる所以なのではないか。

 その容姿と肩書の為か、奏汰が訪れると大概の女性社員はは色めき立つ。
 だが、雫は奏汰の存在も認識していないのでは無いかと思うほど視線をよこすことは無かった。

 思えばこの頃から雫の事が気になるようになっていたのだろう。奏汰は経営戦略部を訪れると真っ先に彼女の姿を確認するようになっていた。

 ある日、定時後にふと経営戦略部を覗いてみると彼女はひとり残業していた。

 ただ、この時はいつもと様子が違った。

 こちらには気づいて無いのだろう。一息ついたようでデスクの引き出しからなにやら取り出して口に運んでいる。おそらくチョコレートだろうか。甘いものを食べた彼女の表情が、とろんと溶けてホッと和らいだものに変わる。

 上半身を脱力させ、リラックスして背中全体を椅子の背もたれに預けている。

 その表情をこっそりみていた奏汰は思わずドキリとした。

(……あんな可愛い顔も、するんだ)

 仕事をしている時の顔からは想像できない無防備な表情。愛らしく感じた。

 なぜかその顔がふんわりと心に残り続け、また見たいと思った。

 アメリカに出張していた海外営業部員が置いていった土産のチョコレートがデスクの上にあるのを見た時、真っ先に雫に食べさせてあげたいと思った。きっとチョコレートが好きに違いない、と。

 残業している彼女に初めて声を掛け、軽く食事に誘ってみた。自分から女性を誘うなんて初めての事だったかもしれない。しかし堅い表情であっさり拒否されてしまった。

 それでもチョコレートを渡すと少し表情を緩めてくれた。その少しが嬉しかった。

 その後も雫の喜ぶ顔を見たくて、何かとチョコレートを渡すようになった。

 土産はいつもあるわけでは無いので、気が付くと有名店のものを自ら買い集めていた。
 いつの間にか妙にチョコレートに詳しい男になってしまった。

 チョコレートを渡すと『……ありがとうございます』と緊張しながらも受け取ってくれるのがかわいかった。

 しかし、何度声を掛けても、雫の警戒心は解かれることが無かった。常にどこか一線を引かれ、それ以上踏み込ませてくれない。

 ちょうどその頃、雫の親友である三上沙和子と奏汰の親友である崎本賢吾が付き合い始めていた。

 『お前が女性の事を聞きたがるなんて、珍しいな』と驚く賢吾を経由して三上沙和子に探りを入れてみると、雫は過去の出来事が原因で、人付き合いが苦手になってしまったらしい。

『過去の出来事』が気になるところだったが、沙和子もそこは話さなかった。

『大事な親友の過去を噂話みたいにしたくないし、私に話す権利もない』ということだ。

『沙和子は安藤さんを俺より大切にしている位なんだ。悔しいがな。やっと口説き落として付き合い始めたんだ。面倒な事に巻き込んでくれるなよ』と賢吾には釘を刺された。


 そんな中、奏汰のシアトルへの赴任が決まった。

 既に半年前から動いていたプロジェクトがいよいよ本格的に動き出す。

 このプロジェクトはこれからのHanontecの将来に関わる大事な事業だ。自分が中心となって進める事は前々から決まっていた。ただ、粛々と進めていくしかないだろう。これまでもそうやってやるべき事を一つ一つこなしてきたのだ。

 雫の事が気になるのも、頑張り屋の彼女に対する妹に向けるような親愛の情だと思っていた。
 だから、2年前の送別会の夜、賢吾に彼女が一人で会社に戻ったと聞いて追いかけたのも、ただ彼女が心配だから――そのはずだった。

 だが、あの時、雫に組み伏せられ彼女の瞳に射抜かれた奏汰は、はっきり自覚した。己の恋心を。

 ゆっくりとした流れに乗って下流に向かっていた小舟が、突然現れた大きな滝に飲み込まれ急降下したようなものだろうか。



 完全に落ちたのだ。



 シアトル行きの飛行機の中で、奏汰は激しく後悔していた。なぜ俺は彼女を手に入れておかなかったのだろうと。何にブレーキを掛ける必要があったのだろうか。

 手をこまねいて無いで、アメリカに攫ってしまえば良かったのだ。

 ――5年?冗談じゃない。

 そんなに待っていたら彼女は他の男に持っていかれるかもしれない。早く日本に戻らなければ。

 シアトルから父親である社長に電話で直談判した。

 結果を出すから2年で戻せ、と。奏汰の突然の主張に社長である父一馬も驚きながらも了承した。

 奏汰は昼夜問わず脇目もふらず働いた。一時的な帰国もしなかった。

 激務の中、支えは日本に帰れば雫に会えるという事だった。シアトルの夕方は日本の朝だ。毎日夕方になると雫の在席状況を確認し(チャットアプリを立ち上げると相手の状況がわかる仕組みを利用した)姿勢の良い彼女に想いを馳せていた。

 そしてシアトルのマンションの自室には彼女が落としたバレッタが大切に保管してあった。

 今になって思うと、なかなか気持ち悪い事をしていたかもしれない。

 こんな奴が友達にいたら引くし、呆れたに違いない。

 その立場にあたる親友の賢吾は奏汰の状態を知り、やはり思い切り呆れながらも時々彼女の様子を知らせてくれた。

 強引に進めた感もあったが、元々優秀な奏汰が本気になった事で、プロジェクトはスピーディに進み、工場建設に関わるプロジェクトなど一部は残したものの、当初の予定を大幅に短縮した。結果的に会社に大いに貢献し、結果的に奏汰の評価は上がったのだ。


 離れている間に想いは降り積もっていった。

 帰国後住む場所に雫が気に入りそうな立地と環境を勝手に想像してマンションを準備してしまう有様だ。

 そんな妄想レベルな事が奏汰の心の支えだったのである。

 とは言え、さすがに最初から彼女を家に連れ込もうとなど考えてはいなかった。あくまで、いつか一緒に住むことが出来たら良いなという範囲だった。と、思う。

 だが、帰国し、経営統括部長としての出社初日からその考えはあっさり変わった。

 逸る気持ちを表に出さないようにしながら、懐かしい居室に入り雫を探した。が、最初に目に入ったのは横に若い男性社員と肩を寄せ合いパソコンを覗き込む彼女の姿だった。

 ただ仕事の相談に乗っていただけだろう。

 しかし、ついカッとしてその男を睨んでしまった気がする。いや、睨んだ。

 さらに賢吾に雫のアパートの付近で女性が被害に遭う事件が起こっているらしいということを聞いた。

 残業が多い雫をそんな危険な地域に一人帰宅させるなんて考えられない。

 ……もうグズグズするのはやめよう。彼女は目の前にいるんだ。後悔はしたくない。

 一緒に住んでしまえば彼女を常に近くに置けるし、安全も確保できる。


 決めてしまえば、その後の行動は早かった。

 2年前の事で彼女は自分に負い目があるはずだ。それを利用してやれ。

 そして、その日の内に婚約者のフリをさせるという我ながら無謀な筋書きを作り上げ、巧みな誘導と強引なやり口で彼女を取り込むことに成功したのだ。


 まずは手元に置いた。これからゆっくり攻略していけばいい。

 フリでは無く本当にしてしまえばいいだけだ。

 雫はかなり緊張しているようだ。まぁ、普通に考えて、広いとは言え、家族でもない男と同じ家に住むことになったのなら警戒するのは正常な反応だと思う。

 この状態で、いきなり自分の想いを伝えたら確実に引かれるだろう。

 まして手を出したりでもしたら、光の速さで自分から離れ、二度と近寄ることが出来ない気がする。それだけは避けたい。

 彼女を傷つけたく無い。多少の我慢と理性の動員は必要だろう。

 会えなかった2年を考えれば、一緒に暮らせるなんて、夢のような状況じゃないか。



 同じ空間でコーヒーを飲んでいる幸せに浸っていると雫が口を開く。

「あの、羽野さん。お願いがあるんですが」

「なに?」

「私の名前の呼び方なんですが……」

「『しーちゃん』っていう?」

「ちょっとその呼び方はアレなので、普通に呼んで頂ければと」

「普通にって…『雫』?」

「……!そ、そうじゃなくて苗字で呼んで欲しいです……」
 からかう口調で言うと、彼女は顔を俯かせて赤くなってしまう。

 あぁ、かわいい。抱きしめたくなり早くも理性の動員がかかる。

 普段会社ではアンドロイドと言われるくらい無表情なのに、こうして感情を露わにすることがある。きっとこちらが本来の彼女に違いない。
 つい、意地悪をしてもっといろいろな顔を見たくなる。

「うーん。じゃあ、しーちゃんが『奏汰』ってよんでくれる?」

「そ……無理です!っていうか、あべこべじゃないですか」

「でも、婚約者のフリをしてもらうんだからお互い名前で呼び合わないと」

「あの、その事ですが、お願いしていたように会社には絶対に秘密にしておいてください」

 雫はこの計画を受けるにあたり、会社で奏汰と個人的な関わりがあることを公にしない事を絶対条件にしていた。

 会うまでは社長にも黙っておいて欲しいし、婚約者として会った後も何か理由を付けてでも公にしないでほしいと。

 たしかに、婚約者のフリをして後に別れた事にする設定だから、周りに知られてしまうとその後のリスクは大きいだろう。そこを危惧するのはわかる。だが彼女は異常な位そこにこだわった。

 奏汰の周りには少しでも接点があると自分と特別な関係であることをアピールしたがる女性が多く、正直辟易していた。

 雫に限ってはこちらがアピールして回りたいくらいだ。

 しかし、時期尚早だろう。

「わかってる。会社ではちゃんと『安藤さん』って呼ぶし、僕たちの事は口外しないようにするから」

「普段から苗字で呼んで頂きたいんですが……」



 雫は不満を漏らしながらも、少し安心した顔をした。