「沙和子、綺麗……」


 親友の花嫁姿に雫は感嘆の声を上げる。



 都内屈指の有名ホテルの明るく広々としたブライズルーム。
 秋晴れに恵まれた今日、賢吾と沙和子の結婚式が執り行われる。

 奏汰と雫は準備が済んだ新郎新婦への挨拶に訪れた。

「雫!」

 純白のウェディングドレスに身を包み椅子に腰掛けていた沙和子は立ち上がり、賢吾と共に迎え入れてくれる。

「やっぱりこのドレスにして良かったね。トレーンも素敵……」

 雫はうっとりと沙和子の装いを眺める。

 長めのコードレースのトレーンがついたミカドシルク素材のドレスはシンプルなラインだが沙和子にとても似合っていた。

「うふふ、ありがと。色々悩んだ甲斐があったわ」

 嬉しそうに笑った沙和子は奏汰に視線を移す。

「羽野さんも、今日はありがとうございます」

「三上さん、いや、もう違うのか。沙和子さん。おめでとうございます……賢吾、お前は顔が緩みすぎ」

 チャコールグレーのフロックコートに身を包み、いつもに増して貴公子のような賢吾なのだが、

「そうか?」と言いながらも美しい花嫁を前に幸せで仕方ないと言う顔をしている。

 苦笑しながらも奏汰は心から祝福を贈る。

「良かったな。おめでとう」


 この2人には本当に感謝している。



 雫と同居し始めてすぐの頃、沙和子に呼び出された事があった。

『雫の事、本気なんでしょうか』

 恐らく賢吾から聞いていた奏汰の気持ちと、雫から聞いたであろう同居に至った状況から、奏汰の思惑は読めていたのだろう。真剣に尋ねる彼女に奏汰は『本気だ』と伝えた。

『わかりました。私は邪魔も協力もしません。決めるのは雫ですから。でも、きっと雫を落とすのは大変ですよ』

『そんな気はしてる』

 確かにその頃から既に雫の手強さを感じていた奏汰だったが、予感は現実となった。

 雫には本当に驚かされる。投げ飛ばされたり、何の前触れも無く潔く家を出て行ったり。

 彼女が家出を決行したあの夜、奏汰は意を決して彼女に告白しようとしていた。

 それなのに、別れを告げるようなメッセージを受け取り、焦ってマンションに帰ると、部屋から雫が暮らしていた痕跡が跡形も無くなっているではないか。彼女の大事にしていたサボテンたちまで姿が無い事に本気を感じる。電話を掛けても通じない。

 冗談でなく膝から崩れ落ちた。

 何をしくじったのか。スキンシップが多すぎたのか、キスしたのが嫌だったのか……好きな男が出来たのか。単に嫌気が差したのか。

 彼女を失ってしまったのかと絶望しながらも、夜に出て行ったであろう彼女の無事を確かめたくて、賢吾を通じて行き先である沙和子に連絡を取ってもらった。

 そして、『会って話がしたい』と伝えてもらい最後の希望を託した。

 賢吾と沙和子の間では自分たちに誤解が生じていることがすぐに分かったらしいが、
 ふたりで直接話した方が良いだろうと、余計な事を言わず会える段取りだけ整えてくれた。

 邪魔も協力もしないと言っていた沙和子だったが、結局は雫の背中を押してくれたのだ。
 お陰で誤解は解け、想いを通じさせることが出来た。
 まさか自分の姉の事を彼女が誤解して出て行こうとしていたなんて。
 彼女との生活に浮かれてそこまで気が回っていなかったのは失敗だった。

(しかし、もうあんな思いはしたくないな……)

 出て行かれた時の事を思い出すと今でもゾッとする。



 奏汰が想いを巡らせていると、雫は目を潤ませている。
 親友の花嫁姿を見て感極まってしまったらしい。

「崎本さん……沙和子をお願いしますね」

「はい、もちろん。安藤さんも沙和子とこれからも仲良くしてやって……あ、でも、安藤さんも、もうすぐ『羽野さん』になっちゃうから、雫さんって呼んだ方が良いかな」

 賢吾はちらりと奏汰を見やる。

「お前ならしょうがないか……気に入らないけど」

「奏汰、お前は安藤さんの事に限ってのみ、心が狭いよな」

 賢吾は呆れて肩をすくめる。

 そんな男性陣のやり取りを尻目に雫は涙目のまま沙和子の手を取る。

「本当におめでとう。幸せになってね……大好き、沙和子」

「……ありがとう。私も雫が大好き。次は雫でしょ」

 沙和子も声を詰まらせる。

「沙和子ったら、泣いちゃうとお化粧がとれちゃうよ」

「だって、雫が泣くから」

 ふたりは抱きしめあっている。しばらく微笑ましく見守っていたが、なかなか離れようとしない。

 親密な雰囲気のふたりを見て男性陣になんとも複雑な感情が生まれてくる。

自分(オレ)にあんな風になってくれた事あったか?』

 それぞれさりげなく、ふたりを引き離しに掛かる。

「しーちゃん、そろそろ親戚の方も来るんじゃないかな」

「そうだよ沙和子。その前にメイク、もう一度直してもらったらどうだ?」

「……あ、はい。後でね、沙和子、がんばって」

「うん。ありがとう、雫」

 名残惜しそうにする雫を部屋から連れ出す。



「式までまだ少し時間があるから、外に出てみようか。ここの庭は薔薇が綺麗みたいだよ」

 涙に濡れた雫の瞳はいつも増して魅力的だ。他人に見られたく無いと思い、ごく自然に庭に誘導する。

 庭園は良く手入れされており、秋咲きの薔薇が穏やかな午前の太陽の元、深紅や淡いピンク、黄色など様々な色を競っている。

「わぁ、本当に素敵ですね」

 表情を明るくし、薄紫の薔薇に近寄り花びらを優しく撫でている雫。

「しーちゃん」

 奏汰は雫を呼び止めスーツの内ポケットからスマートフォンを出し、雫を写真に収める。

 普段、写真はあまり好きでは無い彼女だが、今日は はにかみながらも素直に撮られてくれる。
 雫は今日の為に用意した明るめのピンクゴールドのAラインワンピースを身に纏っている。

 高めにポイントされたウエストの前部分に品の良いリボンがあしらわれていて、膝丈のスカートはふんわりと広がり、デコルテと裾の部分はオーガンジーで透け感のあるデザインだ。華奢な彼女に良く似合っている。

 確かに薔薇も美しいが、薔薇に顔を寄せている雫の方が綺麗だと割と本気で思っている自分は
どうかしているのかもしれない。まあ、それでも構わないが。

 雫の左手の薬指には奏汰が送った婚約指輪が煌めいている。彼女のが自分のものという象徴な気がしてとてもいい。
 大きなダイヤを贈ったら身に着けて貰えないと思ったので、小さめでもいわゆる『4C』が最高で希少なものにした。しかし彼女の反応は予想の上を行き、喜んではくれたものの『眩し過ぎて落ち着かない』と結局普段付けてくれないのだ。奏汰としては少々不満ではある。

 ならば、早くここに自分とお揃いの結婚指輪を嵌めたい。さすがに結婚指輪はしてくれるだろうから。


 ふたりの関係を公にした時、雫が心配していたような反感や、嫌がれせのような事は起こらなかった。
 元々彼女は女性陣にも人気があるのだ。

 無責任な噂話や悪口を言わない裏表の無さと心の綺麗さに惹かれるのに男女関係無い。
 彼女の奥ゆかしい優しさと真面目な人柄は少し関わればすぐにわかる。

 そんな人間に対して攻撃するような者は学生の時はともかく、少なくともHanontec(ウチ)にはいない。

 奏汰と想いが通じた頃から笑顔が増え、前にも増して男たちの視線を集めている事は知っていた。
 自分が彼女を変えたという優越感と同時に『俺以外には無表情で対応していいのに』という上司とは思えない身勝手な考えが浮かんだ。

 結局我慢出来なくなって、自らふたりの関係を公にした。彼女にちょっかいを出していた松岡にもトドメを刺せたはずだ。
 賢吾には『大人げ無さすぎだ』と呆れられた。確かにそうかもしれないが、彼女の事で、もう後悔はしたくないので、なりふり構っていられなかった。



 しばらくふたりで薔薇を眺めながら庭園を歩く。

「僕らの結婚式も楽しみだね」

「はい、まだまだやる事はありますけど」

 雫は柔らかく笑う。


 雫と奏汰の結婚式は来春となった。

 奏汰としてはすぐにでも挙げたかったのだが、雫は『沙和子の結婚式が先だし、藍美の出産が済んで落ち着いてから』と譲らなかった。

『奏汰さんもお姉さんに出席して貰いたいでしょう?』

――そう言われてしまうと、さすがに自分の大人げない我儘で強引に進める事も出来なくなった。
 両親と共にすっかり雫贔屓になっている姉は、大げさに感動していた。彼女らはよく連絡を取り合っていて、最近では奏汰より雫の方が羽野家に出入りしてすることが多いくらいだ。

 藍美の体調は順調で、来月に出産を控えている。義兄も出産前には予定通り日本に帰って来れるらしい。



 雫は「奏汰さんの方がバラが似合う!」と言いながらバックからスマートフォンを取り出している。

「正装のスーツでバラをバックにすると奏汰さん、完全に王子様です」

 今日の奏汰はスリーピースのブラックスーツスタイルだ。

「はは、そうかな。なら君はお姫様だね」

「……私は違いますよ」

 雫は奏汰を撮ろうスマートフォンを向けたが、彼は素早く雫を引き寄せ彼女のスマートフォンをインカメラにしてふたりで写真に納まってしまう。

「奏汰さんだけのがいいのに……」

 不満げに呟く雫を微笑ましく思いながら画像を確認する。

 ちょっと驚いた顔をした雫は文句なく可愛い。そして雫の横で写っている自分も我ながら良い表情をしている。作り笑いでない、自然な笑顔。

「そろそろチャペルに行こうか」

 彼女の手を取り、指を絡ませる。

「……奏汰さん。今日は会社の人もいっぱい来ますし」

 今日の主役は社内結婚の為、式や披露宴には営業部を始め会社の人間が多く集まる。知り合いが多い中、手を繋ぐのは恥ずかしいらしい。

「今は誰もいない」

「そうですけど……」

 この後も衆人環視の中で『恋人繋ぎ』をし続けるつもりの奏汰の心を読んだのか、雫は戸惑っている。

 手を繋いだまま彼女の耳元に唇を寄せる。

「いつも可愛いけど、今日のしーちゃん、綺麗で可愛い過ぎるから手を繋いでないと、俺が心配」

「……!」

 途端に真っ赤になる彼女。一緒に暮らしているし、それなりに『そういう事』もしてる……というか、かなりしているのだが、未だにスキンシップや甘い言葉にこうやって初々しい反応を見せる。

 堪らない。

「恥ずかしがる君も可愛い」

「前から思ってたんですけど……奏汰さんは私を甘やかしすぎです。このままだと私、ダメ人間になってしまいそう」

 もう勘弁してくれという表情で雫は言う

「ダメ人間?いいね。そんな君も見てみたいな」

「もう……じゃあ、私も負けずに奏汰さんの事甘やかしますから!」

「それは光栄です、俺のお姫様」

 繋いだ手を引き、逆の手で彼女の肩を引き寄せ、柔らかい唇に触れるだけのキスをする。

 ここでキスされると思っていなかったのだろう。驚いて固まった雫は真っ赤な顔のまま、潤んだ黒目がちな瞳で奏汰を見上げてくる。

(……今、そういう顔はしちゃだめだから)

 親友の結婚式だが、このままこの愛しい婚約者をマンションに連れて帰りたくなる。


 彼女は『奏汰さん会って前向きになれた』と言ってくれたけれど、自分こそ雫と出会って人間らしい心を持てたのかもしれない。

 与えられた環境の中、淡々と生きて来た自分に、ここまで心乱され、手に入れたいと焦り、愛しく、何を置いても守りたいと思える存在が得られるなんて。


――幸せだ。


「俺は……」


 奏汰は雫の手をしっかり繋いだまま、彼女が好きだと言ってくれる笑顔と共に囁く。


―― 一生、君を甘やかし続けるから。



 穏やかな風が、咲き誇る薔薇の花びらと彼女のスカートをそっと揺らす。

 同時に甘い香りに包まれた気がした。