カタカタカタ……

 雫は今日も集中してPCに向かい、高速でキーボード操作を続ける。

 仕事自体に対するスタンスは『アンドロイドの安藤さん』と呼ばれ始めた時と何ら変わってはいない。
 課された仕事は責任感と当事者意識を持って取り組みたいと思っているし、相変わらず真面目に仕事に取り組む日々だが、雫を取り巻く環境が色々と変わって来ていた。

 奏汰の早業で、あっという間に正式な婚約者としてお互いの家族への挨拶も済んでしまった。
 嬉しい事とは言え、展開の速さに戸惑わなくもない。

 結婚しても出来れば仕事は続けたいと思っている。仕事が好きだし、この会社が好きだ。
 間接的でも奏汰の役に立ちたいという想いもある。
 奏汰も『きみが辞めちゃうと会社としての損失は大きいから、辞めないでくれれば助かるけど、無理はしなくていいからね』と雫に任せてくれている。

 一方、ふたりの関係について、会社ではまだ公表していない。
 奏汰は不満のようだ……ものすごく不満のようだ。でも、待ってもらっている。

 勿論近々周囲に伝えるべきだと解ってはいるが、気恥ずかしいし、奏汰の婚約者という事で注目を浴びてしまう事がやはり少し怖い。
 もう、何を噂されても、事実でないのであれば気にしないでいられると思う。奏汰が信じてくれるならそれでいい。

 ただ、結婚し、パッとしない自分が隣にいる事で彼が恥ずかしい思いをしなくていいよう、少しでも女性としてマシになるにはどうしたらいいだろうと雫は考えていた。

 要は自信がないのだ。


 悩んだ雫は関田に相談することにした。
 交友関係が少ない雫にとって、身近でお手本となる女性といえば彼女だからだ。
 仕事と家庭を両立していて、忙しい中で周囲への気遣いも欠かさない。女子力も高いし、なんせ美魔女だ。
 雫は思い切って『女性として魅力的になるにはどうしたらいいか』とアドバイスを求めた。

 彼女はいきなりの質問に驚いていたが、急に何かが腑に落ちた顔をし『なるほどね』と呟いた後、答えてくれた。

「安藤さんは仕事も出来るし、そのままでも十分可愛くて魅力的だけど……そうねぇ。強いて言うならお話しする時にもう少し笑顔を心掛けるといいかもね」

 ――笑顔。確かに、コミュニケーションの基本と言う事は理解している。
 奏汰はその使い手の最たるものだと思う。

 しかし雫は未だに慣れない人と会話をする時、緊張して上手く笑顔を作ることが出来ない。

「人って、口角を上げると脳が勘違いして本当に『楽しい』と思うらしいわよ」

「脳をだますと言う事ですね。ありがとうございます。心掛けてみます」

 さすが、アドバイスが的確だなぁと感心する。

「まぁ、そのままでも充分可愛いと思ってる人は私だけじゃないと思うけどね……余計な事してって怒られるかしら。ふふ」

 と、関田は意味有り気に微笑んだ。


 それから雫は仕事の話をするときも、笑顔を心がけるよう努力した。書類を持って来た人や、廊下で見知った人に会った時も、挨拶と共に笑ってみるようにしてみた。
 正直、勇気も必要だったし、気持ち悪く思われないか不安もあったが。

 すると、不思議と今まであまり話したことの無い人とふとしたタイミングで会話が出来る事が増えて来た。
 なぜか、全く接点の無かった他部署の男性社員が気さくに話しかけてくれることもあった。
 話すのは緊張してしまうけれど、がんばって慣れて行こうと思う。

 ちょっとした関係性が築けると、その相手から仕事の依頼も事前に情報や調整が入るようになったり、会話の中で行き違いに気付けたり出来、仕事も円滑に進むようになった。
 関田以外の課のメンバーともコミュニケーションが取れるようになり、以前より仕事を抱え込まなくなってきた。

 こういった努力を繰り返して、少しでも女性としてのステップアップを図り、自信を付けていこうと思っていた――矢先の事だった。


 ざっとメールを読み、今日の業務に対応漏れが無いことを確認した雫はホッと息を付く。
 まだ定時を少し過ぎた時間帯だ。
 今日は札幌に出張に行っていた奏汰が4日ぶりに帰って来る。

(羽田から直接家に帰って来るはずだから、夕食を作っておこう。何を作ろうかな、帰りにスーパーに寄って……)

 奏汰は毎晩『しーちゃん、今日もお疲れ様』と電話をくれていたが、彼こそ疲れているだろう。家で美味しいものを食べてゆっくり休んで欲しい。

 冷蔵庫の中身に想いを馳せつつ、パソコンの電源を切り、ペンギンのイラストが入ったマグカップを洗いに行こうと腰を浮かせたところで、居室に入って来た松岡に声を掛けられた。

「雫さん!今日飲みにいきませんか?僕良い店見つけたんです」

 松岡とはワークプレイスのPTで一緒にプロジェクトを進めている。
 雫は当初のアイディアを膨らませ休憩コーナーを一新するという企画案を出した。

 誰にとっても過ごしやすい場所にしたい。ひとりでリフレッシュしたい人も足が向くような場所をイメージした。
 全体的には明るめなカフェのような空間にして、ソファ席や窓に向いた一人用のカウンター席も設ける。
 無料のコーヒーマシンを設けその周りに人があつまるように仕向けたい。
 雫のアイディアは他のメンバーにも好評で、調整後、PTの企画として提案した。
 ある程度予算が必要になるが、誰でも足が向くスペースにすることで社内交流が活発になると認められて企画が通った。
 今はコンセプトを纏めて事務機器メーカーにデザインを依頼しているところだ。
 発注先は何社かでコンペを行い、雫も決定に携わった。

 発注先の事務機器メーカーは大手だが、営業担当の倉橋という女性はとても細やかな対応をしてくれている。どこか温かみを感じるデザインにも感銘をうけてこの会社にお願いすることにした。
 仕事が出来る女性を目の当たりにすると、こちらも頑張ろうと言う気が湧いてくる。

 働く環境整備に関する仕事は楽しく感じる。出来ればこれを機に社内全体を見直せたら良いと思い、何となく奏汰に言ってみたところ、『そうか……自社ビルを持つのも良いかも知れないな』などと突拍子も無いことを言い出して雫を慌てさせたのはつい最近の話だ。

 松岡は無邪気に笑っている。きっとPTの人達と飲みに行くので、ついでに誘ってくれたのだろう。

「松岡くん、君、いつの間にか安藤さんの事『先輩』取っ払って『雫さん』なんて呼ぶようになってたの?それに仕事中にいきなり堂々と飲みに誘うなんて……あ」

 関田があきれて言いかけたのだが、視界の中にまずいものでも見つけたように急に顔を固まらせた。

「先輩って呼ぶのも堅苦しいかなーって思って。それにもう定時過ぎてるんですから、いいじゃないですか。ちょっとくらいプライベートな話をしても」

 彼はコミュニケーション能力が高いから、こうして距離感を近づけて話してくれるし、
色々頼りにしてくれているのは慣れないけど素直に嬉しい。
 しかし、今日は奏汰の為に早く帰りたい。

「すみません、今日はちょっと――」

 予定があって、と言いかけた時

「しーちゃん」

 背後から自分を呼ぶ声がした。

「……!!」

 雫の体がビクリと固まる。

(この声……)

 低すぎず聞きやすい、雫の大好きな声だ。

 ギギギと首だけ回し、ゆっくり振り向くと、案の定奏汰が立っている。
 相変わらず仕立ての良いスーツを完璧に着こなし、出張疲れのくたびれた感じは微塵も感じさせない爽やかさだ。
 4日ぶりの姿に心が甘く高鳴る。

 しかし、だ。

(今、しーちゃんって呼んだよね!?)

 当然だが今まで奏汰が会社で『しーちゃん』などと呼んだことは無い。

「そ……羽野さん」

 奏汰は甘さを含んだ笑みを雫に向けながら彼女の傍らに立つ。

「ただいま、しーちゃん。君に早く会いたくて飛行機の便早めて帰って来たよ。一緒に帰れるかな?夕食は家で食べる?週末だから外食も良いよね。この前しーちゃんが気になるって言ってたラクレットの店に行ってみる?」

 周囲の面々が固まる気配がした。まだ定時後すぐで、社員は殆ど残っているはずなのに、やけに静まりかえっている。

「うん?定時後だから良いんだよね?――プライべートな話をしても」

 明らかに纏う雰囲気が変わる。笑顔は湛えたままだが目が笑っていない。

(……こ、怖いです奏汰さん)

 雫がどう反応していいか内心パニックになりながらフリーズしていると、いち早く我に返った松岡が声を絞り出した。

「……あ、あの、羽野さん。雫さんの事、そういう風に呼んでるんですか?」

「いつもそう呼んでるけど?あ、でも『しーちゃん』なんて可愛い呼び方していいのは僕だけだから」

 奏汰は一切表情を変えずに言う。

「……」

 雫は『そんな呼び方誰もしたくないよ!』という激しいツッコミを心の中で入れる。

 すると奏汰はスッと雫の左手を取った。

「だって婚約者だからね。でもしーちゃんは婚約指輪はキラキラが気になって、仕事に集中出来なくなるから会社にはしてこないんだって。可愛いよね。僕としてはしてて欲しいんだけど。男避けになるから。あぁ、結婚しても会社では旧姓のままにするから彼女の事は『安藤さん』って呼んでくれればいいよ――今までどおり(・・・・・・)

 やはり終始笑顔なのだが、最後の一言と同時に何か冷気じみたものが出た気がする。
 効果は抜群のようで松岡は凍り付いたように動けなくなっている。

「……えげつないわー」

 聞こえないようにボソリと呟いたのは関田である。
 後に聞くと、勘のいい関田は二人の仲に気づいていたらしい。

『明らかに安藤さんが羽野さんを見る目は恋する乙女だったし、羽野さんの安藤さんを見る目もはちみつにグラニュー糖混ぜたみたいに甘ったるかったもんねー』

 と語ったのだった。