雫の空回りによる勘違い家出は1日で終わった。

 沙和子が呟いていたように、雫のアパートに荷物を運び込んだ手間は無駄となり、翌日には全て奏汰の手でマンションに戻された。もちろんサボ平とサボ丸も広々したリビングのチェストの上に納まった。

 その後の奏汰の行動は驚くほど早かった。
 すぐに雫のアパートの解約手続きと引っ越しの手配をしてしまったのだ。

 しかも翌週には雫の家族に挨拶に行きたいと言い出し、段取りを始めて雫を慌てさせた。

 『お父さんとお兄さんに数発づつ殴られる覚悟はあるよ』と笑い雫の実家を訪れた彼は、流石の人当たりの良さと巧みな交渉術を駆使し、両親と兄に結婚を前提とした同棲を認めさせた。

 母など、完全に浮足立っていた気がする。
 今まで彼氏など出来たことの無い娘が連れて来た彼氏が、とんでもなくハイスペックな好青年だったのだから無理もないかも知れない。

 そして、心から喜んでくれた。口には出さないでいたが、母も雫の過去の辛い体験が与えた影響を心配してくれていたのだろう。

 男性陣、特に兄は非の打ちどころの無い相手に悔しさを滲ませながらも

『ひとり暮らしは心配だったから、良かったかもしれないな』と納得してくれた。

『住んでみて嫌になったら止めればいいんだし』とも言われ、

『実はもう一緒に住んでいます』とは言い出せず、居心地が悪くなっていた雫だが、奏汰が真剣な表情で

『お義父さん、お義母さん、お義兄さんが大事にされていた雫さんを、これからは僕にも守らせてください。僕の全てを掛けて、幸せにします』

 と深々と頭を下げる姿に胸がいっぱいになった。




「大丈夫だよ、取って食われる訳じゃないし、両親とも案外気さくだから――あぁ、そのワンピース、やっぱり可愛いね」

 初デートの時に買ってもらったお気に入りのアイスブルーのワンピースに着替え、落ち着かない様子で手土産のチェックをしている雫に、身支度を終えた奏汰は声を掛けた。

「そうは言っても、社長とその奥様ですよ。緊張しますよ」

 雫の家への挨拶が済んだ翌週、今度は羽野家に挨拶に行く事になった。
 そもそも雫の当初の目標は奏汰の婚約者としてのプレゼンだった。まさにそれが今日なのだ。
 フリでは無くて本物にはなったけれど。

「確かに俺も先週かなり緊張したけどね。君のご家族に反対されたらどうしようって」

「あれでですか?」

 余裕綽綽にしか見えなかったし、彼に掛かればうちの家族を説得するなんてチョロかったと思う。

「ポーカーフェイスが得意なんだよ」

「確かに奏汰さん、相手を煙に巻くの上手いかもしれません。笑顔で相手の懐に入って……」

 ――自分の思う通りに事を進めるのだ。

「ふーん。言うようになったね。それで、君は騙されて俺を懐に入れてくれているのかな?」

 いつの間にか後ろに立っていた奏汰に背中から手を回されギュッと抱きしめられた。
 どちらかというとこの状況は雫が奏汰の懐にすっぽりだ。

「騙されたなんて思って、ん……」

 顔を後ろに向かされると、奏汰の唇が覆いかぶさってくる。

「……心配しなくても大丈夫、だよ。しーちゃん、かわいいから」

 雫の後頭部を大きな手のひらで支え、キスを続けなら奏汰は言う。

「……」

『かわいいから大丈夫』って何だ。いろいろ根拠が無さすぎると脳内でツッコミながらも受け入れてしまっている自分が恐ろしい。

 元々、雫を甘やかしがちだった奏汰だが、気持ちが通じてから遠慮が無くなったのか、甘やかし攻撃は留まる事を知らない。激甘だ。客観的に見たら目も当てられないバカップルぶりだろう。

 しかしそれが満更でも無くなってきている。やっぱり恐ろしい。




 奏汰の実家は都内でも一等地で有名な住宅街にあった。
 沙和子の家もなかなかの豪邸だが、こちらも負けてはいない。
 落ち着いた佇まいのどっしりとした洋風の邸宅。聞くと先代が立てたものを受け継いで使っているらしい。
 そんな話を聞くと、ますます緊張してしまう。自分の小物感が半端ない。

 やけに広いリビングに通された雫は緊張しながら両親に挨拶をする。

 社長の一馬はガッチリとした体格で、どちらかと言うと顔立ちも奏汰とは似ていない。
 直接接点を持ったことは無いが、年初式などのイベントや、社内で偶然に見かける社長は温厚ではあるが経営者としての威厳があり、目つきが鋭くオーラがある。

 だから、奏汰が父親の心証を気にして自分に婚約者のフリを頼んだ事にも納得していたのだが……
 知らなかった。プライベートでは案外というより、かなり気さくな人だと言う事を。

「君が安藤さん!ちゃんと話すのは初めてだね。そうかぁ、君だったのかぁ。可愛らしい人じゃないか」

 まじまじと見られて焦ってしまう。

「父さん、彼女が怯えるから」

「ごめんごめん。なんか嬉しくてね。奏汰がシアトルに行ってすぐ、電話してきて結果を出すから2年で日本に戻してくれって言われたんだよね。今思えば君を残してきたからだったんだなぁ。帰国してからすぐ、結婚を考えている人がいるって言い出したんだけど、今必死で落としている最中だって言って、なかなか誰だか教えてくれなかったんだよ。それで、やっと落とせたという訳だな」

 屈託なく笑いながら嬉しそうに話してくれる。

「ちょっと、何の躊躇も無く色々ばらすのはやめてくれ……口止めしとけばよかった」

 奏汰は少しバツが悪そうに額を掌で押さえている。

『シアトルに行く前から君が好きだった』と言ってくれていたのを疑った訳では無いが、こうして聞くと何だか照れてしまう。

 奏汰は雫と同居し始めてすぐに両親に結婚したい人がいると話していたそうだ。

 それを社長が会社で『うちの息子が結婚したい人を見つけたらしい』と、つい話してしまったのと、姉の藍美を奏汰が会社に連れてきたタイミングが重なったため、奏汰の結婚相手が藍美であるという噂が立ってしまったらしい。
 
やはり噂というものは恐ろしい。

「僕も奥さんとは社内で出会って好きになって、必死で口説き落としたんだ。懐かしいね」

「そうでしたね。それはもうなりふり構わず」

 横でニコニコと笑う奏汰の母は鼻筋の通った上品な美人だ。目元が優しくて纏う雰囲気が柔らかい。

 奏汰の整った顔立ちと柔らかい雰囲気は母親譲りのようだ。

「雫ちゃん、奏汰の事よろしくお願いしますね。これからは家にも気軽に遊びに来てね」

「は、はい。よろしくお願いします」

「我が家はおめでたい事だらけね。藍美の所も赤ちゃんが生まれるし」

 社長夫妻は初孫の誕生をとても楽しみにしているようだった。


 両親との顔合わせの後、その藍美とも会う事が出来た。

 少女のような可愛らしい雰囲気があり、やはり年齢よりかなり若く見える。少しゆったり目のワンピースを着ているが、とても近々お母さんになるとは思えない。
 しかし、その可憐な見た目と反してなかなか捌けた性格のようだ。

「奏汰と結婚してくれるの?いいの?このコ見た目はそれなりだけど面白くないよ?」

「藍美……しーちゃんごめん。姉は見た目はそれなりだけど、中身はぶっ飛んでて義兄も手を焼いているんだよね」

「焼いてないよー。毎日私に会いたい、早く日本に帰りたいって連絡してくるし」

ぶーっと膨れる藍美。その表情も魅力的だ。
きっとご主人はメロメロなんだろうなと思う。
 奏汰も藍美と話す時は砕けた雰囲気になってそれも新鮮だ。

 両親に続き、義姉になる人も気さくな人で良かったとホッとしていると、ある事に気が付いた。
 
ついじっと藍美の眼を見てしまう。

「ん、なぁに?」

 見つめられている事に気付いた藍美が尋ねる。失礼だったろうか。

「あ、ごめんなさい。お義姉さん、瞳の色が奏汰さんと同じだって思って……綺麗」

 大切なものを見つけたかのように、ふわりと笑う雫に藍美は固まる。

「奏汰」

「なに」

「ヤバい。雫ちゃんめっちゃカワイイ。しかも、あんたにも『おねえさん』なんて呼ばれた事無いから、なんか萌えるんですけど」

「気持ちはわかる」

 なにやら話している姉弟。

「赤ちゃん生まれるの、楽しみですね。あの、お腹触わらせて貰ってもいいですか?」

「うん、いいよいいよ」

「わぁ、ワンピース着てるとあまりわからないけど、こうして触るとちゃんと赤ちゃんがいるってわかりますね。初めまして。安藤雫です。よろしくお願いします……元気で生まれて来てね」

 屈んで藍美の少し膨らんだお腹を遠慮がちに撫でながら生真面目に話しかける。
 雫は周りが年長者の中で育ったので、乳幼児にあまり接することがなかった。
 扱いとかよくわからないけど、漠然とした憧れみたいなものがある。

 叔母さんになるのだから一般的な知識をネットで仕入れておいた方が良いだろうかと雫の真面目スイッチが入ってしまう。

「生まれたら抱っこさせてくださいね」

 屈んだまま藍美を見上げ、控えめに言う。

「……奏汰」

「なに」

「ウチの嫁が可愛くて辛い」

「それ、俺のセリフだから」

 肩透かしを食らうほど和やかな雰囲気で、羽野家での顔合わせは終わったのだった。