雫の言葉を聞いた奏汰は、目を見開いた後、嬉しそうに顔をくしゃりほころばせた。
 どこか泣きそうな表情にも見える。

 そして雫を長い腕で包みこむようにして再び強く抱きしめた。

「ありがとう……嬉しい。夢みたいだ」

「お、大げさ、ですよ」

 恥ずかしくなりながらも雫は奏汰の逞しい背中に手を回し遠慮がちに抱きしめ返す。

 奏汰の温もりで、雫の心の中がふんわりと綻んでいく。

 一度は封印しようと思っていた想いを伝える事が出来た。そしてお互いが想い合っていたなんて。喜びと満たされた想いが胸を震わせ暖かい涙になってポロリと零れ落ちた。

 奏汰の胸の中で涙を流すのは初デートの日の夜以来2度目だ。でも、今度はあの時とは違い、幸せであふれ出た涙。

「しーちゃん」

 奏汰は抱きしめていた腕を緩めると右手を雫の顎にそっと添え上を向かせた。

 涙を湛えながら見上げる雫に奏汰の顔が近づき、唇に柔らかい感触が降ってくる。
 やさしく奏汰の唇が合わさる。

 雫は頬を染め、今回は自然と目を閉じ彼を受け入れる。口づけは角度を変えて暫く続き、次第に深まっていく。

「……んっ」

 静かな部屋に控えめなふたりの息遣いの音だけがしている。体の芯から蕩けてしまいそうな甘い感覚に翻弄されながら雫は奏汰を受け止めた。

 ようやく奏汰の唇が離れた時、雫は酸欠気味なのと恥ずかしさで奏汰の胸の中でくたりとしてしまう。

 奏汰は優しく髪を撫でてくれる。

「なんだか、私も、夢を、見ているみたいで」

 失恋したつもりで家を出てたというのに、丸一日後にこの状態でいる事が信じられない。

「結構露骨に『好きだよ!』って態度で出していたつもりなんだけどね。でも君は全部婚約者のフリをするためだと思っていたんでしょ?」

「はい……婚約者の雰囲気を出すためだと思っていました」

 まさか自分の事を好きになってくれるなんて思ってもみなかったから、甘い言葉やスキンシップはすべてフリの為だと思っていた。

「本当はフリなんて嘘だったんだ」

「……え?」
 
 奏汰は少しバツが悪そうに、雫を近くに置きたい為、初めからそのつもりで、巧みに誘導し同居に持ち込んだという話をする。

「そ、そうだったんですか」

 衝撃の事実に雫は驚く。当初からそんな風に思ってくれていたなんて。そして、完全に誘導にに乗っていたのか。

「私全然気づかなくて……」

「必死だったんだけどね。これでも」

 奏汰は少し不貞腐れたような顔をする。

「ごめんね、騙すようなことして。でも、どうしても君を手に入れたかったんだ……軽蔑する?」

「軽蔑なんて、しません。私も最初は緊張していたけど、ここでの暮らしが楽しくて、奏汰さんと一緒に居るのが当たり前のようになってきちゃって……図々しいけど、ずっとこの暮らしが続けばいいのにって思ってました」

 雫は小さく笑う。

「楽しいって思ってもらえたのは、作戦成功だったのかな……でも、ちゃんと言葉にして伝えればよかった」

 奏汰は話しながら手の甲で雫の頬を触ったり、指先で首筋を撫でたりしてくる。その動きを艶めかしく感じてしまい、ドキドキしてなんだか落ち着かなくなってくる。

「あの、その、私のどこがお気に召したのでしょうか」

 奏汰ほどのハイスペックな男性なら付き合う相手など選び放題だろう。自分のように華の無い女のどこが良かったのだろうか。

 卑屈にはなりたく無いが、客観的に考えて不思議に思ってしまう。



「仕事に一生懸命、真摯で真面目、芯が強い、いつも相手の事を思いやって行動してる、落ち着いて見えるけど急に突拍子も無い行動を取っちゃう、あと男を組み伏せちゃう所。まだ言ってもいい?」

「うっ。もういいです」

 畳みかけるような言葉が恥ずかしくていたたまない。そして後半は褒められるものじゃないし、耳が痛い。

「もちろん性格だけじゃないよ。可愛くてしょうがない……この綺麗な黒髪も、スッと伸びた背筋も、華奢な体も……吸い込まれそうな瞳も、柔らかい唇も」

 『もういい』と言ったのに続ける奏汰の声が次第と熱を帯びてくる。

 甘すぎる言葉の連続に雫はどうしたら良いか分からず、赤い顔を隠すように奏汰の胸に埋め、奏汰のシャツをギュッと掴む。

 その仕草が彼の最後の箍を外す事になるとは思いもせずに。

「……前、こうしてて俺の腕の中で寝ちゃった事あったよね。もの凄く可愛いかったけど、無防備に安心されるのも複雑だったんだよね。確かに安心するように仕向けてきたから良いはずなんだけど、少しは警戒すべき相手としても見て欲しいなって。あの夜、君の可愛い寝顔を見ながら俺は修行僧のような気持になってた」

「修行僧……ですか」

 よく分からないが、苦行をさせてしまったらしい。でも、今はそれどころでは無い。

「今はドキドキしてさすがに眠くならないというか」

「そっか、でも……連れてっていい?」

 奏汰は雫の耳元に形の良い唇を寄せ囁く。

「俺の部屋に」

「――っ」

 彼が言っていることが何を意味するかは、さすがに理解できる。

「俺としてはかなり待ったよ。君の寝ている部屋に押し入ってやろうかと何度思ったか。さすがにそんな事して嫌われたくなかったから実行しなかったけどね。でも、こうして気持ちが通じたら、我慢出来る気がしない」

 少し体を離し、茹でタコのようになっている雫を覗き込むようにして奏汰は嫣然とした笑みを浮かべる。雫の好きないつもの優しげな笑顔では無い――でもなぜか魅了されてしまう。

「だから、今日からずっと寝るのは俺の部屋ね」

 急に体が浮く感覚を覚え、天井が近づく。奏汰は返事も待たずにサッと雫の体を抱き上げたのだ。そして流れるような寸分の無駄の無い動きで歩き出す。

(ま、まさか、今から?)

「そ、奏汰さん!こ、心の準備が!しかも重いし!」

 焦った雫は奏汰の胸にしがみついて主張する。

 いわゆる『お姫様抱っこ』をされているシチュエーションも恥ずかしいし、逃げ場のない状況にどうしたら良いかと慌ててしまう。

「ぜーんぜん重くないよ。あと、何となく君の準備完了を待ってたらいつまでかかるか分からない気がする。俺、学習したんだよね。君には直球勝負で臨まないといけないって事」

 部屋に入ると奏汰のベッドにそっと横たえられる。体が程よい硬さのマットレスに沈む。

 一晩過ごした事があるベッド。奏汰の身にまとうものと同じなのか、安心する香りがして一瞬ホッとする。

 しかし、彼は安心とは程遠い事を口にした。


「――君を抱きたい。ダメ?」


 まさに直球だ。


 ギシリとベッドの軋む音がする。雫を組み敷いた奏汰の鳶色の瞳が濃く見える。恥ずかしいのに熱を帯びたその視線に捉えられたように目を逸らすことが出来ない。

 あまりの急展開に戸惑っているし、彼を受け入れる事を、怖いと感じる自分もいる。

 そして、ここまで来ても雫が本気で抗えばきっと奏汰はきっと待ってくれるだろう。

 でも。

 こんなにも好きになった人が心から自分を求めてくれているのがわかる。そして自分もこの人が欲しいのだ。

 いつも計画的に物事を進める自分だが、奏汰に対してはもう自分の気持ちに正直に、衝動的になってもいい。不安だけど、彼はどんな自分でも全部受け止めてくれる。

 ゆっくり動き出した歯車がスピードを上げていく。

「ダメじゃ……ありません」

 雫は奏汰を見上げて精一杯微笑んで見せた。

「しーちゃん……!」

 切なそうな顔をした奏汰が奪うように唇を重ねて来た。途端に鼓動が早まる。しかしその感覚すら彼に飲み込まれそうだ。

「ん、そうたさん……」

「しずく……!」

 キスの合間に、お互いの愛しい相手の名前を紡ぐ。部屋の温度が急に上がったかのように体が熱い。

 雫はただ彼に身を任せた。

 暫く雫の唇やその奥を味わった奏汰は彼女を抱きしめ、肩口にその整った顔を寄せ耳元で甘く囁いた。

「大事にする。だから、君の全部を頂戴?」

 雫は小さな声で「はい」と言いながら、手を伸ばし精一杯奏汰の背中を抱きしめた。