「で、何がどうしたっていうのかしら?」

 腕を組み、眉間に皺を寄せた美人にローテーブルの向こうから睨まれている。
 毛足が長く肌触りの良いラグマットの上で居心地悪く雫は首を竦める。

「急にいろいろお願いして申し訳ありません……」

 ここは沙和子の部屋だ。

 沙和子は家族と共に都内の一等地にある瀟洒な邸宅に住んでいる。
 彼女の母は久しぶりに会う雫を歓迎し、話しをしたがったのだが、到着早々沙和子は雫を自分の部屋に通した。


 奏汰と崎本の話を聞いてしまった雫が自席に戻った後、チャットで連絡を取った相手は沙和子だった。社内で連絡を取りたい時、スマートフォンより社内チャットの方が確実で早い。

 マンションまで車で迎えに来て欲しい。しかも一晩泊めて欲しいと無茶を承知で頼み込んだ。
 普段はしない雫の急な頼みに、沙和子は理由も聞かずに応じてくれた。

「切羽詰まった様子だったから、とりあえず連れて来たけど、何があったの?……まさか、羽野さんに酷い事された?」

 いや、そういう事では無くて、と口を開きかけた時、雫のスマートフォンが震える。ハッとして見ると奏汰からだ。何も知らない彼からもうすぐマンションに着くというメッセージが入っている。

「ちょっと、ごめんね」

 沙和子に断りを入れ、メッセージを打ち込む。元々あのマンションにはメモも残さないつもりだった。

 奏汰が家に帰るタイミングに合わせてメッセージを送ろうと思っていたのだ。

『今まで、大変お世話になりました。お役に立てずに申し訳ありません。元の生活に戻ります。今日は三上さんの家に泊まりますので心配しないでください。これからもお仕事は頑張りますのでよろしくお願いします』

 自分の感情には触れない。こう書けば察しの良い奏汰はわかるはずだ。どう思うだろうか。逃げるように出て行く恩知らずと思うか、手間が省けてよかったと思うか。どちらにしても辛い。胸が潰れそうな気持になりながら、でも迷わず送信ボタンを押した。

 つい沙和子の家に泊まると行き先を告げたのは、同居していた時の癖だ。彼は心配性な所があったから。

 メッセージは即座に既読になった。それを確認した雫はすぐさまスマートフォンの電源を切る。
 言いたいことだけ言って、返事は怖くて暫く見たくない。本当に自分勝手だ。

「――雫。今もだけど、迎えに行った時からずっと泣きそうな顔してる」

 雫を見守っていた沙和子の表情がこちらを心底気遣うものに変わっている。

 沙和子は雫の事を昔から一番に気にかけてくれる存在だ。

 恋人である崎本から冗談半分に『俺よりも安藤さんを大事にしてるんじゃないかと思って妬ける』と言われたこともあるくらいだ。

 対して沙和子は『あたりまえじゃない。雫が大事』と笑っていた。
 それは冗談にしても、彼女が雫を心底心配していることは変わりない。

「沙和子……」

 雫は沙和子に今日立ち聞きしてしまったことを話した。奏汰の恋人の存在について、それが今朝見た女性であると言う事。沙和子はまさか、と驚く。

「ありえない。羽野さんは雫一筋のはずなのに。だってあんなに……あ、ごめん電話出て良い?」

 何か言いかけたタイミングで、今度は沙和子のスマートフォンが着信を告げた。
 沙和子は画面で誰からか確認するとゴメンと雫に告げ、応答しながら部屋を出る。
「賢吾さん?」という声がしたので、崎本からだろう。

 話の内容は聞こえないが、なかなか電話は終わらないようだ。

 もしかして今日ふたりは会う約束でもしていたんじゃないか、邪魔してしまったのでは無いかと気になってくる。

 暫くすると電話を切った沙和子が戻って来た。

「……羽野さんから賢吾さんに連絡があって、雫が家に無事に来ているか確認して欲しいって。ちゃんと来てるから安心してって言うように頼んだから」

「そ、そうだったの。沙和子にも崎本さんにも迷惑かけてごめんね」

 忙しい奏汰にも結局心配をかけてしまった。

「あと、羽野さんからの伝言。ちゃんと会って話がしたいって」

「……」

 沙和子は雫の顔を正面からじっと見つめる。

「好きなんでしょ?羽野さんの事」

「……うん」

 暫くの間の後雫は答えた。

「じゃあさ、ちゃんと自分の気持ちを言ったらどう?」

「それは……できないよ」

 奏汰にとってこの気持ちは迷惑でしかない。もう封印するしかないのだ。

 沙和子は、しばらく何か考えている様子だったが、いきなり「はぁー」と大げさ溜息を付く。

「……ねぇ。高校の時、何で私が雫に声を掛けたか聞かれた事があったよね」

「え?あ、うん」

 急に話題が変わり、戸惑いながらも答える。高校3年の時、噂の為孤立していた自分に沙和子がわざわざ声を掛けて来たのはなぜかと聞いたことがあった。

「たしか『何となく気が合いそうだと思ったから」』って言ってたよね」

「本当はね。ちょっと違うの」

「違う?」

「ウチってさ、父親が事業やってるから、私も『お嬢さま』みたいな扱い方される事が多くて、友達もそういうバックグランド込みで近づいてくる子が多かったのよね。仲良くても上辺だけって感じで。私もそういうのには慣れっこのつもりだったんだけど」


 どこか友達付き合いに冷めていた高校2年に進級してすぐの事。
 沙和子が放課後部活に行こうと、荷物を持って体育館に向かっていると話し声が耳に入って来た。

『三上さんってさ、なんか偉そうだよね~』

 隣のクラスの何人かの生徒が廊下で会話をしている。掃除当番が終わってロッカーに道具を片付けているらしい。

 自分の事が話題になっている事に気づき、沙和子は思わず壁に背中を預けて立ち止まった。
 噂のネタになっている相手がいるとは気づかず生徒たちは話を続ける。

『そうそう。親がお金持ちだから勘違いしてるんじゃないの』

『私1年の時に同じクラスだったけど女王様みたいだったよ。他校に彼氏がいて、二股掛けてるらしいよ。自分が可愛いって勘違いしてるんじゃない?』

 そう言って、キャハハと笑う生徒は確かに去年一緒のクラスだった。特に仲が良い訳でもなかったが、よく話しかけて来て、こちらも何となく話をする友達の『ような』存在だった。

 他校の男子生徒に告白はされたが断ったし、まして二股なんてかけていない。

 またか。と、思う。友達の顔をしながら今まで何回裏でこういう話をされてきたのだろう。虚しい気持ちで踵を返そうとした時、はっきりした声が聞こえた。

『三上さんは、1年の時委員会で一緒だった事あるけど、そんな風には見えないし、実際に彼女可愛いと思うけどな』

(――安藤さん?)

 そう言ったのは1年の時委員会で少しだけ一緒だったことがある安藤雫だった。受け持つ仕事が別だったので殆ど接点は無く、真面目でおとなしいという印象ぐらいしかもっていなかった。

 こういう時は何となく話を合わせておくのが普通なのに、雫は事も無げに否定したのだ。
 友達でも何でもない自分のために。いや、沙和子の為というより、雫は人の話の流れでは無く、自分で感じて判断したことを言っただけなのだろう。

 噂話をしていた生徒たちは急に白けたような雰囲気になって会話を止め、さっさと立ち去って行った。

 それだけの事だか、沙和子にとって雫は忘れられない存在になっていた。


「あの後、雫の噂が流れた時、出所は私の事を噂していたグループじゃないかと思った。もしかしたら、雫のまっすぐな所があの人達には面白くなかったんじゃないかって。今度は私が雫を守りたいって思ったのもあるけど、きっと雫なら裏表のない友達になってくれるんじゃないかって」

「……そうだったんだ」

 言われてみるとそんな事があったような気がする。でも、沙和子がそんな風に思ってくれているなんて知らなかった。なんとなくこそばゆい気持ちになる。

「あの頃の雫みたいに自分の思ったことをハッキリ言ってみたら?」

 もう、臆病にならず好きな人に好きって伝える。そこから一歩進められるんじゃないかと沙和子は言う。

「羽野さんと暮らし始めて、雫は随分変わったよ。相変わらず頑張り屋だけど、頑なじゃ無くなってきたし、表情も柔らかくなったし、前向きになって来て……変えてくれたのは羽野さんなんでしょ」

 その通りだ。でも――

「そんな事言えないよ。もう私の為にちょっとでも煩わしい思いをして欲しくない」

 これから結婚しようと言う人にこの思いを伝えても迷惑なだけだ。

 沙和子ははぁ、と再び溜息を付くと、綺麗にネイルされた指先を額に当てて困った顔をする。

「何だかあなた達、お互いを思いやり過ぎて空回りしている気がしてならないわ……しっかし雫は本当に鈍感いうか、何というか。羽野さんが気の毒だわ」

「気の毒?」

「あーそう、気の毒。雫、面と向かってお礼も言わず出てきちゃったんでしょ。衣食住お世話になったのに?あ~それは人として、社会人としてどうかと思うなぁ」

 沙和子は言う。どこかわざとらしいのは気のせいか。

 しかし、ウッと雫は声を詰まらせる。あれほどお世話になっていたのに確かにきちんとお礼を言っていない。
 役に立たず、ただ快適な暮らしをさせてもらった。そして勝手に出て行った。
 早くあの家から出なきゃいけないという衝動的な行動だったが、今思うとかなり失礼だったかも知れない。

「告白するとか抜きにしても、会って話をした方が良いと思うよ。羽野さんもちゃんと話がしたいって言ってくれているし」

「お詫び、した方が良いって事?」

「うーん、そういう事ではないんだけど。まあ、いいや……とにかく面と向かって話す事!」

「……」

「ちゃんと連絡とって」

「……」

「今」

 沙和子の有無を言わせぬ圧に押されながら、雫はスマートフォンを手に取る。

 確かに彼女の言う通り、感謝の気持ちは伝えるべきかもしれない。

 俯いていた自分を変える勇気をくれたのは間違いなく奏汰だ。

 顔を上げた事で見える景色が違ってきた。少しずつ物事を前向きに捉える事が出来るようになっている。
 彼のお陰で男性に対しても以前より拒否感を抱かなくなったような気がする。

 いつか、こんな自分でも良いと言ってくれる人が現れたら、お付き合いをして幸せになる事が出来るかもしれない。

(『ありがとうございました』と心を込めて伝える事が出来たら、好きな気持ちは伝えなくても自分の中で踏ん切りをつける事が出来るかも知れない)

 沙和子は考え込む親友をしばらく見守った後、励ますように肩にポンと手を置いた。