会社帰り、雫はマンション近くのスーパーに来ていた。

 いつも食材の買い出しに来ていたこの店は、商品用の空き段ボールがサービスで持ち帰り自由となっている。レジ袋代わりに利用する客もいるようだ。

 店員に声を掛け、その段ボールを3つほど拝借し、畳んで何とか小脇に抱える。
 店を出たところでふと立ち止まる。

(……奏汰さんともよく来たなぁ) 

 土地柄か、普通のスーパーでは目にしないような、珍しい食材や輸入物の調味料などが並んでいて、奏汰はそれを試したがって、購入したこともある。

 雫はここのベーカリーコーナーのクルミパンが気に入っていた。他の店に比べてクルミの量が多くて、香ばしくておいしい。人気商品らしく、いつもあるとは限らないので見つけた時は買うようにしていた。

 奏汰もそれを知っていて、会社帰りに寄って雫の為に買ってきてくれる事もあった。

 しかし、ここに来るのもこれが最後になるだろう。


 昼間、休憩コーナーから職場の自席に戻った後、雫は脳をフル回転させ定時後の自らの行動スケジュールを細かく決めた。

 就業時間内に良くないとも思ったが、こういう事の頭の回転は速いので、ものの5分で完了した。その後、社内チャットである人物に連絡を取った。

 まず、定時と同時に退社する。

 珍しく早く席を立つ雫に関田は何か言いたそうな顔をしていたが、失礼しますと言って足早に会社を出た。

 奏汰はあの後取引先に向かう予定だった。一度会社に戻るだろうから、帰宅するのは20時を過ぎるだろう。

 それまでに速やかに終わらせなければ。

 段ボールを抱えてマンションのドアを開けまっすぐ自分の部屋に向かう。

「さて、と」

 呟いた雫はウォークインクローゼットのドアを開け、洋服の掛かっているハンガーに手を掛ける。そして黙々と片付け始めた。
 マンションにある荷物は元々多くないが、奏汰に買ってもらった服がクローゼットに掛かっている。
 一枚一枚綺麗に畳んで段ボールに詰めていく。

 自分のものでないのに持っていくわけにはいかないし、クローゼットに掛けっぱなしにもできない。目に付いてしまう。黙々と作業を続ける。

 『初デート』の時に買ってもらったアイスブルーのワンピースを手に取った時、一瞬胸が苦しくなったが、思いを断ち切るように機械的に作業を進める。

 何とか全て詰め終わると蓋をしてクローゼットの奥に積み上げておく。申し訳ないが後から奏汰に処分してもらおう。

 本日の最終目標は自分の生活の痕跡を消し、このマンションから出て行く事だ。


 やっぱりあの休憩所はレイアウトを変えるなり改善した方がいい。
 休憩所の会話が外から聞こえてしまうのはどうかと思う。

 『アイミさん』の話をしている奏汰は表情こそ見えなかったが、声はとても穏やかで優しかった。

 奏汰にはアイミさんという恋人がいて、彼女との間に子供が出来た。
 そう知った直後、一刻も早くここを出て行かなければいけないという思いに支配された。

 今朝見たふたりの姿。彼女は可愛らしいだけで無く華もあった。

 奏汰の隣に立つのはああいう女性がふさわしいだろう。

 なぜ彼が、自分に婚約者のフリを頼んだのかはよくわからない。
 彼女の代わりが必要だったのだろうか。
 アメリカで知り合った彼女と訳あってやむを得ず別れたが、その後彼女の妊娠がわかり事情が変わったのかも知れない。

 昨日の電話で、社長から彼女が帰国したことを知らせれたのではないか。

 だから『婚約者のフリなんて頼まなければよかった』と思ったし、雫には今夜話をしてこの生活を終わらせようとしているのだろう。

 だが、この際向こうの経緯は関係ない。
 もちろん自分の気持ちもだ。

 大事なのは奏汰に結婚予定の恋人がいて、彼女のお腹に彼の子供がいるという事実だ。

 もし、自分がこのマンションに出入りする姿や、奏汰と一緒にいる所を会社の人間に見られて噂にでもなったら。

 今度は自分だけでなく奏汰も彼女も傷つける事になる。
 今更ながら己の行動の軽率さが悔やまれる。

(ショックで、お腹の赤ちゃんに影響があったりしたら……)

 背筋が寒くなる。

 奏汰も早く彼女をこの家に呼びたいに違いない。そもそもファミリータイプのこのマンションは彼女の為に用意したのかもしれないという気すらしてくる。今の雫は邪魔者でしかないはずだ。

 この後、奏汰に同居解消の話をされるんだろう。
 それなら、こちらから出て行った方が奏汰も面倒では無いし、効率的だ。

――頭ではそう考えているが、心は違う。彼から話を聞くのが辛くて、怖くて逃げるのだ。

 本当はわかっている。自分が傷つきたくないだけ。相手の為と言っても、結局感情なんて全て自分本位なのだ。

 その想いに囚われると進めなくなりそうで、雫はただ目の前の作業に集中した。

 作業に没頭して心を消すのは得意だ。

 歯ブラシなど日常生活で使っていたものも全て片付けた。
 思ったより早く完了し、雫はリビングでホッと息を付く。


 ここで奏汰と共に多くの時間を過ごした。

(よくここに座って奏汰さんが入れてくれたコーヒーを飲んだなぁ)

 しっかりした革で出来たダークブラウンのソファー。奏汰がいつも座っていた場所の背もたれをそっと撫でる。

 彼の柔らかな笑顔が切なく思い出される。

 ここで過ごした時間は、少なくとも自分にとっては幸せなものだった。

 好きだと自覚した途端、失恋してしまった。この行くあてを無くした恋心は、いつか懐かしく思える日が……来るのだろうか。

 最後にサイドボードに置かれたサボ丸を紙袋に入れる。すると、置き去りなるようにサボ平がひとつポツンとさみしそうに見えた。

(奏汰さんに買ってもらったものだけど、サボ平だけは貰っても良いかな。サボ丸もサボ平がいないと寂しいもんね)

 暫く考えた雫はサボ平も手に取り、同じように大事に紙袋に入れた。

 やがてスマートフォンがメッセージの着信を告げる。それを見た雫はスーツケースを持つ。
 最後にもう一度リビングを眺めてから玄関に向かった。

「お世話に、なりました」

 ドアが閉じる音は雫の想いを断ち切るようにやけに重く響いた。