「婚約者のフリなんてそもそも頼まなければよかった」

 雫はその言葉に立ちすくんだ。


 仕事がひと段落着いた後、社内PTの案を作ろうと、休憩コーナーの現場調査にひとりこの場にやって来ていた。
 松岡の話を聞いた後、どうにも落ち着かなくなってしまって切り替えようと思ったのも正直ある。

『俺は実際に見たり、本人から聞いた事でないと信じない』

 以前、彼が自分を守るように言ってくれた言葉。噂は鵜呑みにしてはいけない。噂で辛い思いをした雫は誰よりも分かっているつもりだ。

 仮に本当だとしても、同居人ではあるがただの部下の自分はどうこう言える立場では無い。

 一方、嘘であって欲しいと願ってしまう気持ちもあり、どれだけ自分勝手なんだろうと落ち込んでくる。

 そんなモヤモヤした気持ちを抱えたまま、ここにやって来たのだ。


 奏汰と賢吾が座っているベンチは観葉植物越しに少し離れており、背を向けているため雫の存在は気づかれていない。
 盗み聞きになってしまうと立ち去ろうとした時、奏汰の言葉を聞いてしまったのだ。

 フリなんて頼まなければよかったと。

(……奏汰さんは、私に婚約者のフリを頼んだことを後悔してるんだ)

 やっぱりと思うと同時に、胸が掴まれたように辛く軋む。
 雫は思わず両手を胸の前で合わせてギュッと握る。

 雫が動けないでいる事に気づかず、会話が続き、賢吾が話題を変える。

「ところで、彼女、良かったじゃないか。今日社長にお会いした時、嬉しそうに話してくれたよ」

「あぁ、藍美の事?そうだな」

「お前を頼ってアメリカから来たんだろ。体調は大丈夫なのか?」

「やっと落ち着いてきたから、こっちの病院に掛かりたいらしい」

「社長も奥様も喜んでるだろ。なんせ、初孫だし」

「張り切っちゃってるよ。社長が藍美に会いたいって言うから、今朝仕方なく会社まで連れて行ったよ。連れて行ったら行ったで体が心配だから早く帰れって、勝手だよなぁ」

 そう言いながらも奏汰の声は優しい。

「藍美さん、大事にしないといけないな」

「そうだな。彼女も、お腹の子もね」

 見えない槍で心臓を貫かれたような気がした。

(……お腹の、子……)

 ふたりがベンチから立ち上がる気配する。凍り付いていた雫はハッと我に返った。
 見つからないように細心の注意を払い、静かに立ち去った。


 職場に戻った雫はいつもに増して無表情のまま物凄い勢いで何やらパソコンに入力し始めた。
 高速キーボードの音が止まらない。

 関田でさえ声を掛けられる雰囲気ではなかった。

 本当に昨日から次から次へと心が乱れる出来事が発生している。

 だが、今日はまだ終われないのだ。

 雫は行動を取ることにした。