翌日の朝は始業時間には間に合うようには到着出来たが、普段より出勤が遅くなってしまった。

 雫は早足でビルのオフィスフロアへのエントランスに向かう。


 資料室での出来事の後、抜けた腰を何とか立たせ、マンションにたどり着いた雫だったが、呆けて夕食もろくに食べれなかった

『なんで奏汰さん、キスなんて……』

 無意識に拳を唇に当てながら考える。
 婚約者ならキス位する、みたいな事を言っていたけど、本当にそうだろうか。

『機嫌が悪かった気がするから、腹いせに?……いやいや、そんな事する人じゃない』

 彼が見かけに違わず、穏やかで温かい人だということは一緒に暮らす中でよく分かっていた。

 ――だから、好きになったのだ。

 あの時、社長からの電話が無かったら、どうなっていただろう。

 奏汰のキスは強引だった一方、重なった唇は優しく感じた。驚きと同時に蕩けそうになる自分がいた。

 そのまま身を委ねてしまいたくなるような――

 雫は頬を赤らめ、唇を指先でそっと押さえる。もちろんファーストキスだった。

『……奏汰さんだったから』

 彼以外の男性にあんな事をされたら絶対に全力で抵抗し、柔道技でもなんでもかけていただろう。

 いつの間にか、こんなにも好きになってしまっていたのだ。

『猶更早めに出て行かなくちゃね。これ以上迷惑にならない内に……』

 リビングボードの上に仲良く並ぶサボ丸とサボ平相手に延々と呟いてみたが、もちろんトゲトゲの彼らは答えてはくれない。悶々と夜を明かし、結局寝不足のまま出勤したのだった。

 奏汰が実家に帰ってくれていて良かった。もし、彼がマンションにいたらどんな顔をしていいかわからなかった。

(今日話があるって言ってたけど、何だろう)

 社長と会うための最終調整でもされるのだろうか。

 いよいよ、この生活も終わりに近づいている。




 IDカードをかざして、セキュリティゲートを通過するとエレベーターの前に居る奏汰の後姿が目に入った。距離があっても彼の事はすぐわかる。雫の胸が思わず甘く高鳴る。

 しかし、奏汰は一人ではなかった。隣に若い女性が立っている。

(誰だろう?)

 首から下げたIDカードのストラップが、ゲスト用の色をしているので、社員では無さそうだ。

 エレベーターを待つふたりは向き合って会話をしている。

 遠目からでもわかるほど、女性は可愛らしい顔立ちをしている。

 スタイルも良く、肩まである滑らかなブラウンの髪は美しく、ライトベーシュのふわりとしたAラインワンピースが似合っていてとても可憐だ。年は雫と変わらないか、少し年下だろうか。

 奏汰を見上げ、にっこり微笑んでいる。奏汰も気を許したように柔らかく笑っている。

 女性の手が奏汰のスーツの腕に親し気に置かれた。奏汰はそれを気にすることも無いように受け入れている。

 その姿を見て胸がチクリと針を刺されたような痛みを感じた。

「しーずく!おはよ。今日はいつもよりゆっくりなのね?」

 その場から動けないでいる雫に出勤してきた沙和子が声を掛けて来た。

「あ、沙和子……おはよう」

「ん?どうかした?」

 沙和子は反応の悪い雫の不自然さに気付き、視線の方向を見やる。

「あれ、羽野さんの隣の人、だれ?随分と可愛らしい……え、何よ。やけに親し気じゃない」

「誰だろうね?知らないけど、取引先の人かな」

 本当は気になってしょうがないのに、さも気にしてないように言う。

「羽野さんって、確か妹さんは……」

 沙和子が確かめるように言う。

「うん。いなかったと思う」

 確か結婚して海外に住む姉がいると言う話は聞いたことがあったが、妹はいないはずだ。

「……そうなんだ」

 沙和子は戸惑った声を出す。

 ふたりの親し気な様子をみると、仕事関係の相手でない事は間違いないだろう。

 やがてエレベーターが到着し、奏汰は彼女をエスコートするように乗り込んでいった。




 仕事をしていると余計な事を考えないですむ。
 雫は一気に仕事を片付けようとパソコンに向かった。

 幸い、奏汰は打ち合わせが連続で入っており、その後取引先に向かう予定らしく、朝一度顔を出した後戻って来ていない。

 しかし、ふとした瞬間、今朝見た光景が切り取られた絵の様に思い出されてしまう。寄り添い立つふたり、親し気な様子。どう見てもお似合いだった。

 そんな考えを振り払うようにまた仕事に取り掛かる。その連続だった。

 こんなに仕事に集中することが出来ないなんて初めての事だった。



「おふたりとも、知ってます?」

 午後、関田のデスクで来週提出の集計資料の確認をしていると、営業部から書類を出しにやって来たという松岡が話しかけて来た。

「なーに、松岡くん。最近ここに油を売りに来ることが多すぎない?暇なの?ちゃんと仕事しなさいよ」

 関田に釘を刺されるが松岡はどこ吹く風だ。

「ちゃぁんと仕事もしてるし、成果は出してますよ。それにココに来ることが最近の僕のやる気に繋がっているんですから」

 無理やりにでも経営統括部に来る用事を作っていると笑っている。
 何でわざわざ用事を作るのか解せないが営業として情報収集でもしているのだろうか。

「それより!羽野さんがすっごく可愛い女性を連れて社長室に行ったって営業部でもちきりなんですよ」

(……あ)

 雫は内心ドキリとする。今朝奏汰と一緒にいた女性の事だろう。

「なんでも、羽野さんがアメリカにいた時から付き合っていて、羽野さんを追って向こうからやって来たとか。やっと結婚が決まったそうで、今朝会社に連れて来たみたいですよ」

「え?ちょ……松岡くん、適当な噂流しちゃだめだよ」

 何故か関田が焦って雫を見やる。

「本当かどうかなんてわからないでしょ」

「いえ、さっき僕も羽野さんが彼女をタクシーに乗せて見送るの見かけましたけど、羽野さん彼女をすごく気遣っている雰囲気でしたよ。あれは、ただならぬ仲ですねぇ」

 美男美女で目の保養でした。良いもの見たと松岡は楽しそうだ。

「松岡さん」

 ずっと黙っていた雫は口を開いた。

「関田さんの言うように、噂を無責任に流すのは良くないと思います」

「雫先輩?」

「……安藤さん」

 無表情で言った後、席に戻る雫に松岡は焦り、関田は心配そうに見ていた。